時系列に沿った別世界
「自分たちの都合だけを見て、強引な行動をしているように見える」
と感じているかも知れない。
それは、お互いに同じことを思うということであり、だからこそ、
「それぞれの世界の存在」
というものを、知ることがないように、それぞれの世界を作った、
「創造主」
というものが、考えてのことなのかも知れない。
それぞれの世界において、
「お互いの世界の長所と短所を知っているのではないか?」
と思えるほど、それぞれの世界を対照的に考えているところがあるようだ。
世間一般の人は、それぞれの世界を知ることはないのだが、それは、創造主によって考えられたことであり、それぞれの世界を支配している集団があり、それが、それぞれの世界を、
「創造主」
と呼ばれるものに変わり、支配しているということであった。
どちらの世も、世界というものは似ている。
それぞれに、主義主張がバラバラな国家というものが、その単位で存在している。そこには、
「国家元首」
というものがいて、それぞれの国家を支配している。
その支配する主義の中には、
「民主主義」
と呼ばれるもの、
「社会主義」
と呼ばれるものという、国家体制によっての主義の違いで成立している国家もあれば、
「独裁国家」
のように、
「絶対君主」
のような、
「独裁者の裁量ですべてが決まる」
というところがあったり、
「立憲君主」
のように、
「君主といえど、最高法規である憲法を下に裁量を決めなければいけない」
という国もある。
それは、どちらの国も同じで、その中で、
「創造主と、それぞれの君主との間の橋渡しのような役目」
を持った組織がある。
その組織は、
「創造主から与えられた特別な力というものを持っていて、その力によって、その世界を影から支配する」
という、
「影のフィクサー」
というものが存在しているのだ。
その人の存在は、
「その世界の一般人には知られてはいけない」
ということになっている。
「国家体制の危機」
ということでもあるが、知られてしまうということは、
「世界が一つではなく、裏と面があり、他にもたくさんの世界の可能性がある」
ということを証明してしまうことになるのだ。
実際にそのことは、それぞれの世界にいる科学者によって、
「創造された世界」
という考え方で存在している。
ただ、証明することができないというだけで、それぞれに意識はあるのであった。
そして、そのことは、学者の著した書籍の中で明らかにされている。
もちろん、
「SFのような夢の世界」
という発想であることは、誰もが思っていることであろう。
しかし、その中でも、
「限りなく現実に近い世界観」
とも考えられていて、
「どちらともいえないが、説得力がある」
ということで、存在すると考える人の方が、人数というよりも、力関係として大きいといってもいいだろう。
それぞれの世界が、
「対照的だ」
というのは、それぞれの世界における、
「限界と感じるものを、相手の世界では補うかのように作られている」
ということである。
まるで、
「民主主義の限界」
というものを、
「社会主義の台頭によって、解決しよう」
という考えであった。
要するに、
「それぞれに、矛盾というものが孕んでいる」
ということで、その解決策を模索する中で、考えられたものということであった。
「民主主義と社会主義」
というものは、
「自由と平等」
という、本来であれば、民主主義の中で、
「どちらも重要視されなければいけないものだ」
ということであったが、
「自由」
というものを優先してしまったことで、
「平等という概念が崩れてしまった」
ということである。
そのため、民主国家のその先にあるものは、
「貧富の差」
ということであり、
「一部の特権階級が私利私欲に走る」
ということになるのだ。
だから、社会主義では、そんなことがないように、国家に強い権力を与え、独裁国家の様相を呈してきたのだが、そうなると、
「独裁者は、自分の権力をほしいままにすることで、力が独裁者のまわりに集中する」
ということであり、さらには、
「それに耐えられなくなったまわりが、クーデターを起こそうと虎視眈々と狙っている」
ということから、独裁者は、
「疑心暗鬼に陥り、大規模な粛清を行う」
ということで、
「結果、強くて絶対的な力があるはずの国家の力は、その独裁者によって、どんどん小さくなり、最後には滅んでしまう」
ということになるのだ。
要するに、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
ということで、その
「塩梅とバランス」
というものが、国家運営において、どれほど難しいかということになるのであろう。
「一つの世界の中の、さらに一つの国家」
においても、そこまで難しいのだ。
これが、
「一つの世界」
ということであれば、さらに難しいということになるであろう。
しかし、逆にいえば、
「創造主と近い」
ということもあり、目が届くことである。
しかも、そこには、
「影のフィクサー」
と呼ばれる、
「それぞれの国家にも、その存在は知られていない」
という力が存在しているのだ。
実際には、
「創造主の存在は、曖昧でありながら、想像の世界は存在しているのであるが、影のフィクサーの存在は、本当に誰にも分からない」
と言われる。
その理由として、前述の保護色の発想ではないが、
「路傍の石」
のような存在だと考えれば、理屈的には納得がいくというものではないだろうか。
この考えは、特に、
「この世」
であることであり、
「こっちの世界」
というところでは、
「概念というものが存在しない」
と言われている。
というのは、
「路傍の石という考え方は、そこに石があって、実際に見えているのだが、その存在感が薄いということで、見えている人に意識させない」
ということで、これも一種の、
「自衛本能」
というものだ。
「こっちの世界に存在しないというのは、こっちの世界には、別の考えが存在するということから」
ということであった。
それは、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
ということで、この考えは、どちらの世界にもあるのだが、
「こっちの世界」
においては、特別にその考えを究明しようという、
「研究チームが存在している」
ということであった。
要するに、こっちの世界の考え方として、
「自衛本能」
というものは、
「無限と限りなくゼロに近い」
という発想から考えられるものであり、それが、いわゆる、
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョシカ人形」
という発想だったりするのだ。
当たり前のことではないのに、これを、
「こっちの世界」
では、
「当たり前のこと」
ということで納得しようとしている。
それこそが、
「路傍の石」
のように、
「見えているのに、意識することができない」
という発想と同じだといえるだろう。
作品名:時系列に沿った別世界 作家名:森本晃次



