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人死に

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「生まれながらにして、厳しい世の中に直面している」
 という人も少なくないということである。
 河村も、幼児の頃、
「虐待」
 を受けていた。
 両親は、いつも喧嘩をしているようなひどい親で、母親が、酒に酔った父親に絶えず暴力を受けているという、暴力夫であった。
 さらに、その母親もろくな母親ではなく、そのストレスを子供に押し付けていたのだ。
 だから、河村が受けていた虐待は、
「母親からのもの」
 ということで、これも、
「判で押したような虐待の事実」
 ということであった。
 何とか、うまく児童相談所が、河村を助け出すことに成功し、
「親から引き離すことができた」
 ということである。
 昭和の頃までであれば、
「両親から引き離す」
 というのは、親権の問題などもあることから難しかったが、今の時代では、
「法律が助けてくれる」
 ということで、いい時代になったということなのかも知れないが、そもそも、
「こんな法律ができなければいけなくなった」
 という時代になったということが、そもそもの問題ということになるのではないだろうか?
 河村は、そんな悲惨な過去を持っているが、子供の頃から、
「勉強が好きだった」
 ということもあり、
「まわりの人に負けたくない」
 という反骨精神。
 さらに、
「自分は自分」
 という、孤立主義のようなものを持っていたということから、成績はぐんぐん上がり、
「神童」
 と言われるくらいになっていたのだ。
 もちろん、
「二十歳過ぎればただの人」
 という場合もあるので、途中から、成績は下がってはきたが、それでも、人との競争という意味では、その実力を発揮することがあったのだ。
「普通の人」
 ということになったことで、逆に、まわりの人と交わることができるようになったということで、彼の壮絶な過去を知っている人は、そんなにいないということであった。
 だから、大人になってからの河村は、
「自分に壮絶な過去があった」
 ということを、自然と忘れていったようだった。
 だから、今では、
「おれは、ただの人だ」
 という、
「無意識の意識が強いようで、逆に、子供の頃の自分がどんな子供だったのかということを覚えていない」
 ということであった。
 だから、
「俺に子供の頃なんかあったのかな?」
 と思うほどで、大人と子供の境目を考えた時、
「俺は、いつ大人になったんだろう?」
 と思うようになると、逆に、
「自分には子供の頃というものはなく、ずっと最初から大人だったということなのではないだろうか?」
 と思うくらいであった。
 河村は、そういう意味では、少なくとも、
「他の子供とは、かなり違った育ち方をしたんだな」
 と感じるのであった。
 そんな河村が、
「目の前で自殺をしようとしている」
 という人を見た。
 もちろん、偶然に見たということであるが、その時、身体がすくんでしまい、何もできなかったのだった。
 だから、その時の感情は自分の中で、うしろめたさと、何もできなかったということで、
「助けようと思っていたのに、身体が動かなかった」
 という風に思い込んでいて、
「どうして身体が動かなかったのか?」
 ということが、却って自分の中でのうしろめたさにつながるのであった。
「助けることができなかったのは、臆病風に吹かれたからだ」
 としか思えなかった。
 確かに、震えがあり、
「助けなければいけない」
 という思いが気持ちの前面に出ていたと思っていた。
 しかし、それは、後から冷静になって考えた時、
「助けようと思うのが当たり前だ」
 という大前提での思い込みであるということも、頭の片隅にあった。
「助けるのが当たり前」
 ということを信じて疑わない。
 つまりは、
「助けることが、人間として当たり前だ」
 という思い込みである。
 だが、自分の中で、
「後ろめたさ」
 というものを否定しようという思いが働く時がある。
 それは、
「いつまで経っても、後悔ばかりしていても、先に進めない」
 と思った時だ。
「そう、うしろめたさという考えは、後悔をしているから」
 ということで、
「後悔をすることが後ろめたさにつながるということでの、いたちごっこ」
 というものが、
「自分を後悔から立ち直らせる」
 ということであったり、
「先に進むということを妨げる」
 ということになるのだということを、どこまで理解しているのかということになるのであろう。
 後から思い出すというのは、
「後悔が残っているから、思い出すことで、その時の自分の正当性を立証しよう」
 と考えるのではないだろうか?
 今回も、後から思い出して、
「助けようと思った」
 という正当性を基準に、
「助けられなかったのだが、助けようと思った」
 ということが、自分を納得させられることになるだろうという思いから、まず最初に、
「正当性というものを示す必要がある」
 と考えるのであろう。
 だからこそ、
「後から思い出したその時を、冷静になった時」
 と考えるに違いない、
「自殺しようとしている人を止める」
 ということをすると、どうなるか?
 ということである。
 その場合、
「警察に届けるかどうか?」
 ということも問題になる。
 もし、届けなければ、
「自殺を止めたという責任」
 というものを、止めた人間が追わなければいけないということになる、
 これを警察に届けていれば、少なくとも、その責任は、
「警察にもある」
 ということになるだろう。
 しかし、だからといって、警察が何をしてくれるというのか?
 ただでさえ、
「誰かがストーカーを受けている」
 であったり、
「行方不明」
 というだけでは動かない。
 それなりの、
「やらないことへの言い訳づくりのために、それなりの行動はとるだろうが、それも、しないことを前提の行動」
 ということで、
「警察は、何かハッキリとした事件がなければ、動かない」
 ということなのだ。
 だから、捜索願を出しても、まず、
「事件性があることかどうか?」
 ということを先に捜査するのだ。
 それは、
「変死体が見つかった」
 という場合も同じで、
「殺人事件かどうか?」
 ということが、まずは、捜査の前提ということになるのだ。
 つまりは、
「自殺者がいて、自殺をしようとしたが、他人に止められた」
 ということであれば、事情を聴いて、
「よほど再発の危険がなければ、何もしない」
 といえるだろう。
 再発の危険があると考えたとしても、そこは、
「心理学の先生」
 であったり、
「神経内科」
 などに預けるということで、結局は、
「丸投げにして終わり」
 ということであろう。
「パトロールを強化しよう」
 ということも考えられるが、
「そこまでの問題があるのであれば、病院が入院させるくらいはするだろう」
 という、こちらでも、
「他人事」
 ということで終わるに違いない。
 しかも、警察は、
「仕事でやっている」
 ということなので、結局は、
「事務的なこととして終わらせるだろう」
 ということだ。
 最終的に、
「警察に何かできたかも知れない」
作品名:人死に 作家名:森本晃次