人死に
ということを考えず、
「かわいい」
というだけの理由で、ペットとして飼い始め、結局、放り出してしまうことになる場合など、
「その飼い主に、責任はないのか?」
ということである。
要するに、
「命に関わることを、自分の都合だけで、後先考えず、飼ったはいいが、面倒を見切れず、ひどい場合は、飽きたという理由で簡単に捨てたりする」
ということだ。
自分は、
「捨てる」
というところまでが絡んでいるということであるが、野良になってしまった場合、ひどい場合は
「殺処分」
ということになる。
「自分は、捨てるところまでだ」
といっても、
「お前が捨てなければ、殺されることもない」
ということで、責任転嫁もいいところということになる。
せめて、責任をまっとうするというのであれば、
「次の飼い主を見つけて、その人に後を託す」
というところまでやっていれば、
「飼い主としての責任はまっとうした」
といってもいいだろう。
ただ、それでも、
「自分の都合だけで飼い始めた」
という責任は、逃れられたわけではない。
もし、これが人間だったらどうだろう?
勝手に、親から他人に、育てられないということを理由に、預けられるというのは、人道的には許されるということでもないだろう。
「育てられないのであれば、生まなければいい」
ということになるわけで、もちろん、
「途中で事情が大きく変わった」
ということで、仕方がないということもあるかも知れないが、
「子供には罪はない」
ということだ。
つまりは、
「生まれてくる時、子供は親を選べない」
ということであり、もっといえば、よく道徳などで、
「人間は生まれながらに平等だ」
などと甘い戯言をいう人がいるが、このような、
「子供は親を選べない」
という事実がある時点で、
「人間は生まれながらに不平等なのだ」
といってもいいだろう。
なんといっても、今の時代は、
「幼児虐待」
などというのが、日常茶飯事ではないか。
中には、
「結婚もしていない男女が、快楽に溺れて、子供ができてしまったが、母親は、情が湧いたのか、生むことにしたのはいいが、子供がいることで、男女関係がおかしくなると、父親も母親も、それを子供のせいだと思うようになり、片方が虐待をしても、片方は見て見ぬふり」
などということもあるという。
中には、
「両親ともが、子供を虐待する」
という人もいて、その理由が、
「ストレス発散」
という理由であれば、そもそも、
「どうして生んだんだ?」
ということになる。
「堕胎」
というのがいい悪いの論議はあるだろうが、結果、虐待に繋がり、まるで、
「この世の地獄」
ということになるのであれば、堕胎というのも、仕方がないことということで、
「堕胎は絶対に悪いことだ」
とはいえないのではないだろうか。
今がそんな時代になっているわけで、そもそも、
「そんな親が生まれる社会環境」
というものが、その根底にはあるのかも知れない。
「何が悪いのか?」
ということは、その複雑な社会環境を考えれば、一概には言えないだろうが、だからこそ、社会問題の善悪を誰が決めれるのかということになるのである。
そういう意味で、
「自殺をしようとしている人を、絶対に救わなければいけない」
といえるのだろうか。
確かに、
「人が死のうとしていれば、黙って放っていくというのは、殺人に匹敵する」
という一つの考えもあるだろう。
しかし、前例である、
「捨て猫などの問題」
と考え方は同じではないだろうか?
というのも、
「捨て猫を黙って見逃す」
ということと、
「自殺しようとしている人を見逃す」
ということであれば、事情を考えると、
「捨て猫を拾ってきても、うちはマンション住まいだから、ペットは飼えないの。だから捨ててきなさい」
というのが、大方のところであろう。
子供は、純粋な気持ちで、
「猫がかわいそうだから」
ということで連れてくる。
親とすれば、あくまでも、
「近所やまわりの社会の事情」
というものを最優先とするので、そういって、子供に、せっかく拾ってきた猫を捨てに行かせることになる。
母親が、どこまでの考えなのか分からない。単純に、
「面倒くさいことは嫌だ」
ということで、
「マンションでは飼えない」
あるいは、
「近所迷惑になる」
ということを言い訳にして、拾ってきた子供を毛嫌いするような言い方をする場合もあれば、同じように、毛嫌いする言い方をしても、それはあくまで、
「こんなことが二度とないように」
ということで、
「本当は、子供の気持ちを考えると気が引ける」
と思う親もいて、まだ救いとなるかも知れない。
しかし、それでも、結局は、
「自分のことしか考えていない」
ということで、
「親の責任だけしか、考えていない」
というのは、本当に親が子供の前で取る態度なのだろうか?
子供は意外とそのあたりのことを分かっているようで、育つ家庭で、
「理不尽だ」
と思うことだろう。
しかし、
「親の言っていることは正しいことなのだ」
という大全体を子供が持っているとすれば、理不尽だと思いながらその経験から、
「自分が大人になっても、親と同じことをするんだろうな」
ということで、結局は、
「この問題は、社会環境が変わらない限り、永遠のテーマとなるだろう」
ということだ。
それよりも、子供と親の関係も、同じまま進んでいくということになり、
「親子関係で何が正しいというのか?」
ということが、そもそもの、
「永遠のテーマ」
ということになるだろう。
それこそが、他人ごとということになるのではないだろうか?
自殺を止める
要するに、親とすれば、
「しょせんは、犬猫のこと」
ということで、
「誰かが何とかするだろう」
と、思うかどうかまでは分からないが、思ったとしても、それは他人事ということになるのだ。
だから、大人からすれば、
「自殺を止める」
という問題と、
「犬猫を飼う飼わない」
という問題では、
「相手が人間であれば、助けなければいけない」
と考える。
それはあくまでも、
「道徳やモラル」
という考え方からであろう。
さらには、
「目の前で死のうとしている人を見かければ、無意識に止めている」
という人もいるだろう。
その人はきっと、
「明日は我が身」
と思ったのか、目の前で死のうとしている人を、とても他人事のように思えなかったということになるだろう。
これが犬猫であれば、
「完全に他人事」
ということであり、人間であれば、
「とても他人事のように思えない」
と考える人が多いだろう。
それだけ、大人になれば、
「自殺というものを、誰もが一度は考えたことがある」
ということではないだろうか。
それだけ、
「大人の世界は厳しい」
ということであるが、実は、その厳しい世代というのは、どんどん若年化していき、それこそ、
「虐待を受ける」
ということであったり、
「捨て子」
ということから、



