人死に
「都心部を走る都市高速道路の下の道で目撃した交通事故」
というものであった。
交通量もハンパではなく、道はいつも渋滞しているといってもいい状態で、まだその頃は学生で、車の所持はおろか、免許も持っていない時であった。
河村が免許を取得したのは、
「二十歳を超えてから」
ということで、大学の三年生の頃であった。
もちろん、いずれは車がほしいとは思っていたが、それも、就職してからと思っていたので、道を歩いていると、どうしても、車に対しての見方も他の人とは違ったのかも知れない。
歩行者として車を見ていると、とにかく、
「危ない」
という感覚が強い。
それはあくまでも、
「車の運転」
ということとは切り離したところで、自分も車を運転するのであれば、
「自動車同士の衝突というのが、どれほど恐ろしいか?」
ということを考えるだろう。
しかし、車の運転の恐怖を知らないと、
「実際に車が突っ込んできたとしても、車の免許を持っている人ほどの恐怖を感じないのではないか?」
と感じるのであった。
だから、
「車の運転をしない」
という河村は、それまで、
「車に対しての恐怖」
というものを分かっていなかった。
しかし、その日に見たのは、
「車同士の出会いがしらの衝突事故」
というものだった。
なんといっても、
「高速道路の下の道」
ということで、衝突した時の音というのは、かなりのもので、
「ガシャン」
と言葉で表現しただけでは言い表せないというくらいであった。
実際に、目の前で交通事故を目撃したのはその時が初めてで、正直、
「そのまま気絶してしまった方が気が楽かも知れない」
と感じたほどだった。
しかし、実際には、
「気絶のタイミングを逸してしまった」
ということで、ここで気絶することはできない。
そう思うと、必死になって意識を失うことを避けようとするのだった。
それを思えば、今度は、
「事故で受けたショックを、いかに和らげるか?」
ということが意識として重要ということになり、
「その時初めて、自分が直接被害に遭っているわけではないのに、逃げ出したくなるというような感覚を感じた」
といってもいいだろう。
高校生の時、学校に警察の交通課の人が来て、
「交通安全教室」
というものを開いたのだが、その時に見た事故の衝撃的な映像というのも、さることながら、結局は、
「リアルではない」
ということから、どうしても、
「時間が経てば、その記憶は薄れていく」
ということは避けられない事実であり、実際に、その時のショックが、次第に薄れていくということを意識していた自分に気づいていたのだ。
実際には、
「夢というものがそういうものなのかも知れない」
と思ったようで、夢と切っても切り離せない感覚だったというもの分かるというものである。
自殺
そんな交通事故の現場であったが、「その時の事故を、
「夢に見ていたのではないか?」
ということを、後になって感じたのだった。
その時に感じなかったのは、
「もし、夢に見ているのだとすれば、それが、正夢であった」
ということを意識しているはずだということに気づくはずだと感じたからだ。
後になってそのことを感じるというのは、
「正夢というよりも、予知夢」
という意味で、
「実際に目撃した事故というもの自体が、夢だったのではないか?」
というものだ。
だから、
「現実には起こったものではない」
と感じたいがために、それが、
「正夢ではなく、予知夢というものだった」
と感じたいに違いないのだった。
その事故が本当に存在した事故だというのは間違いないことではあったが、
「それを認めたくない」
という自分がいるということで、その思いが、ショックという形で表に出たということなのかも知れない。
それを思えば、
「夢というものを、目が覚めるにしたがって忘れていく」
というのは、
「人間の本性」
として、怖いものを否定しようとする死期があるからなのかも知れない。
そんなことを考えていると、その時の事故のショックは、まるで夢から覚める時のように、次第に薄れていくのが分かるというものだ。
「忘れていく」
ということと、
「最初から覚えていない」
ということとでは、その種類は違うというものであるが、それを、
「マイナス面とプラス面」
ということでの、
「加算法と減算法」
というもので考えられるほど、単純なものだとはいえないのではないだろうか?
確かに、
「100から減っていく減算法」
というのは、
「忘れていく」
という感覚と同じであろうが、
「果たして、最後には、すべてを忘れているものだろうか?」
と考える。
実際に、
「減算法」
というものを考えた時、
「合わせ鏡」
などのような、
「どんどん小さくなるもの」
という定義だと考えた時、
「果たして最後はあるのか?」
と考えて、合わせ鏡の発想になった時、鏡に映る自分が、無限に存在しているものを、合わせ鏡というと考えた場合、
「減算法」
というものも、無限だということになれば、いえることとして、
「絶対にゼロになるものではない」
ということから、
「限りなくゼロに近い」
というものが、減算法だといえるだろう。
すると、
「忘れていく」
という感覚も、無限だと考えると、
「完全に忘れることはできない」
ということになり、
「何かの拍子に思い出すことがある」
ということであれば、今、完全に記憶として残っているもの以外でも、
「実は忘れてしまっているというものが残っているのではないか?」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢というものも、目が覚めると終わってしまう」
と思われがちだが、
「本当は、夢の中だけで続いているものではないか?」
と思うのだ。
つまりは、
「起きている時だけでつながっている意識」
というものと同じように、
「夢を見ている時に意識していたものも、実は、夢の中だけでつながっている」
という考えもありえるということである。
これは、それだけ世の中に、
「いったん途中で途切れるが、時間が来れば、またやってくる」
というものと酷似している。
それが、
「昼と夜」
などのように、日ごとで微妙には違っているが、実際には、
「ほぼ誤差の範囲というだけの定期的な間隔」
というものが、
「昼と夜の感覚」
ということであれば、
「夢とうつつの感覚」
というものも、ほぼ誤差の範囲の定期的なものといってもいいだろう。
だから、本当は、
「夢というのは、眠った時、必ず見ている」
ということなのかも知れないが、その種類によって、実際に覚えていないというのは、
「忘れていく」
という作用が働いているからではないかといえるのだ。
忘れていくということが減算法であれば、
「絶対にゼロになる」
ということはない。
だとすれば、どんどん小さくなってはいく中で、消えることがないことから、
「いずれ思い出すこともある」
ということから、



