人死に
確かに、
「デジャブ」
といってしまえば、その通りで、それを思えば、
「一般的にデジャブ」
というのは、
「初めてのはずなのに、記憶に残っている」
と感じるのは、
「本当はごく直近で感じたことを、完全に忘れてしまっているので、記憶の中にあるはずなのに、忘れているという感覚が思い出せないことで、記憶にはないということを、思い知っているだけのことではないか?」
と考えた。
風俗の待合室から、通路を通って、女の子に対面するまで、今まで感じたことがないと思っていたことは、それこそ、
「子供時代における経験の凝縮ではないか?」
と感じた。
自分が精神疾患だと思い、医者も、
「双極性障害」
と診断したのだが、それが、
「本当なのだろうか?」
と思えてくるのだった。
その時の自分は、
「まるで自分が医者になったかのように思えた」
ということであり、
「そもそも、同じ人間の中に、患者もいる」
ということなので、
「医者と患者を両方体験できている」
ということなのだから、
「これ以上、自分を納得させることはないだろう」
と感じた。
そのきっかけが、
「風俗店の待合室から通路の先まで」
ということで、このドキドキ感というものこそ、
「自分の中にいる医者に対しての、医療知識」
といってもいいかも知れない。
それをその時、
「これが、自浄能力なのかな?」
と感じた。
「人が自殺をする場面を見て、躊躇して、結局助けることができなかった」
ということで、精神的に病んでしまい、そのせいで、神経内科に通うことになった。
そういえば、病院でも、
「待合室から通路を通って、診療室に入る」
というのは同じではないか。
あの時も、何かしらのドキドキ感があった。
もっとも、
「まったく違うドキドキ感」
ということであるが、病院と、風俗店での一番の違いは、
「自浄能力の有無」
ということであろう。
病院というのは、そもそも、
「病人の症状を確認し、病名を確定させることで、いかに治療を進めていくか?」
ということが、病院の役目で、それによって、
「患者を治す」
ということになる。
当然、
「患者の力ではなく、医者や薬の力」
ということになるので、そこには、
「自浄効果」
というものは、あまり活躍しない。
「他力本願」
といってもいいだろう。
しかし、精神疾患における、
「風俗店の待合室から通路」
というのには、
「自浄効果」
というものが存在し、その助けというものが、どのような効果をもたらすかというのは、
「個人差」
というものがあり、当然のことながら、
「本人に、自浄効果という意識がない限り、うまくいくものではないだろう」
しかも、
「風俗店というものをうしろめたさで感じている人には、その効果は永遠に現れるものではない」
といえるだろう。
だからこそ、
「病気と超能力は紙一重」
ということで、それが、
「長所と短所」
という考え方に結びついてくるということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「人間の性欲」
というものは、
「多種多様に自分に対して自浄効果というものを与えるものとなるのではないだろうか?」
といえるのであった。
大団円
風俗に通うようになって、
「いずれは結婚するのも悪くない」
と思うようになった。
実際には、まだまだ、
「未来への不安」
というのが消えたわけではない。
なんといっても、
「地球沸騰化」
であったり、
「少子高齢化」
というものの進行に歯止めがかかるどころか、その加速度は、ハンパではないといってもいいだろう。
実際に、世の中で起こっていることは、毎年、
「想定外」
ということである。
「異常気象もさることながら、ここ数年の間に起こったこととしての重大事件」
ということで、
「世界的なパンデミック」
というものがあったではないか。
実際に一時期のパニックがある程度収まってから数年が経ったが、今では、
「ああ、そんなことがあったな」
というほどに、完全に、
「過去の話」
ということになっているではないか。
その時、
「本当の世界の終わりというのは、異常気象や、少子高齢化というものではなく、別の想像もしていなかったことから来るかも知れない」
と思ったのだ。
というよりも、もっと感じたのは、
「本当の突発的なことで、世界の終わりというものが来るのではないか?」
ということであった。
つまりは、
「いつ、どこで起こっても不思議はない」
ということであり、
「もし、そういうことになるのであれば、避けることのできないことであり、今さら、じたばたしても同じことではないか?」
ということであった。
そうなると、
「何も、未来のことに対して、余計な気を持たせて、余計な精神疾患になってしまい、自分を犠牲にする」
というのは、
「それこそが、本末転倒というものではないだろうか?」
と感じるのであった。
なるほど、確かに河村は、
「今まで、考えなくてもいいことを考えて、考えなければいけないことを、果たして考えてきたのだろうか?」
と感じるのであった。
未来のことを考えて、自分が死ぬまでのことに対して向き合っていなかったのかも知れない。
もちろん、
「少子高齢化」
「地球沸騰化」
ということで、
「地球の未来はない」
という結論に達した時、
「未来の子孫にその責任を負わせるのはいけない」
と思って、
「子供を作らない」
あるいは、
「子孫を残さない」
というのは、今の自分たちのことを考えたくないということへの、
「免罪符なのではないか?」
と考えると、
「その発想は、どこか逃げではないか?」
と思うのだ。
それはきっと、
「過去の先祖たちが、この問題を分かっているのに、どんどん未来に先送りしてきたことから起こったことではないか?」
と考えるからだ、
確かに、
「今の地球や社会は、過去の人間が、その時々の問題をおざなりにしてきたから、引き継がれてきた問題」
ということで、
「俺たちが悪いわけではなく、過去から、もう手の施しようのない状態」
ということで引き継がれたものといってもいいだろう。
だから、問題として考えられるのは、
「安楽死」
という問題ではないだろうか?
「どうせ助かる見込みはない。将来の科学力に期待するしかない」
ということになるのだろうが、今とすれば、
「何とか延命」
というしか方法がない。
安楽死の問題と同じように、
「延命のためにも、生命維持装置のために、金がいる」
ということで、安楽死の場合は、
「家族だけが、それを引き受けなければいけない」
という理不尽なことになっている。
では、それが、
「国家規模」
あるいは、
「地球規模」
ということになれば、どうなのだろうか?
果たして、皆で賄うということができるのだろうか。
政府は、
「皆の努力」



