人死に
「逆に相手を助けなかった場合は、助けるべきか。このまま見逃すか?」
ということを、必ず迷っているということになるだろう。
だから、もし、
「助けられなかった」
ということであれば、
「助けない」
という結論になったという場合と、
「迷った末、助けるタイミングを逸してしまい、助けられなかった」
ということで、後悔が残るということになるのではないだろうか?
尊属関係
そのタイミングのずれが、ジレンマということになると考えるのであった。
河村は、その時、結局、
「自殺をした人を見殺しにしてしまった」
助けられなかったということを、
「助けようかどうか、迷ったというのは間違いない」
といえるだろう。
しかし、実際に助けられなかったということで、自分の中で、
「後悔が残った」
というのも事実だ。
この後悔というのは、
「助けようかどうしようか?」
という結論が出る前に、相手が死んでしまったということからの、後悔ということであった。
つまり、
「その時は、どちらが正しいのか分からなかった」
ということである。
ただ、冷静になって考えると、
「あのまま助けてしまうと、自分が、その人の人生まで背負わなければいけない」
ということになり、
「とてもではないが無理だ」
ということは分かり切っているだろう。
「人の人生を抱えることが自分にはできる」
ということであれば、もっと早く結婚しているだろうし、それこそ、もっと、
「人のためになることか、それとも、人を利用して、自分の人生を豊かにする」
ということくらい考えられるということになるのではないだろうか?
それが、その時の、河村のジレンマであった。
もちろん、
「他人の人生を抱えるなんて、何が起こるか分からないこの世で、ありえるわけはない」
とも思えた。
だとすれば、
「結婚も人の人生を半分担ぐ」
ということであり、しかも、
「結婚したい」
という、精神的な結婚適齢期にそう感じるだけであり、これが、子供ができたりすると、そのうちに、惰性になるということで、
「自由な生き方がまったくできなくなる」
ということで、
「俺は犠牲の上に成り立つ人生を歩むことになる」
と思うのだった。
それが、
「人間というものの人生の営みだ」
と思えば、諦めがつくのかも知れないが、実際に諦めがつかない人がたくさんいて、結果として
「結婚生活というものがある」
ということだ。
それこそ、
「結婚は人生の墓場だ」
と言った人がいたが、まさにその通り、
「肉親であっても、恨みを感じる」
ということがあるのに、しょせんは他人の男女が、
「子孫を残す」
というだけで、引き合わなければいけないというのは、
「それこそ、人間の営みというものを作った者の罪」
といえるのではないだろうか。
世の中では、
「結婚というものは、元々他人が家族になる」
ということになるので、そもそもが、
「うまくいくとは限らない」
といっていいことであろうか?
確かにその通りで、
「今では、結婚よりも、離婚する率が高い」
ということであり、さらには、
「結婚しない男女が増えてきた」
というのも事実である。
では、
「肉親であればうまくいくというのか?」
ということであるが、そもそも、
「近親婚」
というのは、ほとんどの国で禁止されている。
理由は様々であるが、
「肉親ではうまくいくはずだと考えれば、なぜ近親婚がいけないというのか?」
ということを考えれば、
「肉親というものであるからこそ、余計にまずい」
といえるのではないだろうか。
つまりは、
「相手のことを分かりすぎるくらい分かっている」
ということから、
「相手のいいところも悪いところも見えている」
ということである。
「結婚というと、どうしてもひいき目に見てしまう」
ということから、
「いいところだけではなく悪いところまで見える」
ということから、どうしても、
「いいところをひいき的に見る」
ということから、
「見たくもない悪いところ」
というのは、本当にひどいと思うことだったりする。
結婚前だったりすれば、見なければいいが、結婚すればそうもいかなくなるということだ。
それは、
「肉親間の関係」
ということにも言えることであり、
「肉親であるがゆえに、許せないところがある」
という理屈も分かるということだ。
それが、自分を納得させるということになり、
「肉親間」
なのだから、分かり合えるはずだという考えが、本当にそうなのか?
ということだけではなく、
「勝手な思い込み」
であれば、
「倫理やモラル」
ということで、納得させるための道具ということを考える人は、少ないだろう。
それこそ、遺伝子というもので、昔からの、
「人間の本性」
あるいは、
「本能」
として受け継がれてきたということであれば、
「それこそ、血のつながりというものが、実は人間の本性の裏に潜む、いわゆる悪と言われるものではないか?」
といえるだろう。
だから、
「ミステリー小説」
などで、
「血のつながり」
というものを、逆に嫉妬や怨恨というものに結びつけることで、物語が出来上がるということもあるのであった。
実際に、前述のような、
「親子」
というものであっても、
「血がつながっている」
といっても、実際に、
「幼児虐待」
ということも行われていたり、以前、誰かから洗脳を受けたなどということで、
「子供にまともに食事も与えられない」
ということから、餓死させたという事件があったりしたではないか。
逆に、
「子供が親を殺す」
ということも、以前は結構あったりした。
法律的には、昭和の途中くらいまでは、
「尊属殺」
という規定があった。
つまりは、
「肉親を殺せば、その罪は加重される」
というものであった。
「親族ではない人を殺した場合と、親族の中でも肉親を殺した場合では、罪の度合いが違う」
ということである。
つまりは、
「他人に対して懲役7、8年くらいということであっても、同じ罪状でも、相手は肉親ということであれば、死刑または、無期懲役」
ということになったというものである。
今は、そんなことはないが、昔は、
「肉親は尊属ということを言われていた」
ということであった。
今では、
「平等の観点」
から、殺人の相手が誰であっても、変わりはないということになるのだ。
だが、昔の方が、
「尊属」
というものに対しての考えは深く、今では、
「法律上も、実際にも、尊属という考えがあるのかないのか、疑わしい」
といってもいいだろう。
だから、余計に、
「肉親であろうが、人と人の関わりなどは、絵に描いた餅のようなもの」
といってもいいだろう。
「結婚しない」
というのも、昔のように、
「家族を増やし、子孫を繁栄させる」
という考えがなくなってきたといってもいいだろう。
特に今の時代は、
「本当に、子々孫々に無限に人間が栄える」
という考えが正しいといえるのだろうか?



