【別説】神も仏もない
と思うのであった。
逆に、
「まったく違う人間に生まれかわる必要がある」
ということを考えると、
「必ず、死んでからその人が生きていた時代を知らない人ばかりの時代でないといけない」
といえるだろう。
もし、死んだことを知らない人であれば、
「生まれ変わり」
ということを知らないわけなので、
「まったく同じ人」
ということであれば、その人が、元々そのまま生きていたのか、生まれ変わったのかということが分からないということになる。
「生まれ変わりである」
ということを示さなければいけないという世界であるとすれば、それこそ、
「混乱してしまう」
ということになるだろう。
実際に、
「生まれ変わるということがあるのだとすれば、生まれ変わった人間は、生前の人間とは明らかに違いがないと生まれ変わった意味がない」
ということである。
そのことを、この教団は感じていた。
「そして、それらの生まれ変わりというものが、今の時代に許されるものだ」
という存在があるとすれば、
「あれしかない」
と考えることがあるのだった。
それが、
「尊厳死」
というもので、
「本来であれば、絶対に許されるものではない」
という尊厳死。
つまりは、
「死というものは、尊厳に値する」
ということであるが、
「倫理やモラル」
という意味から考えれば、
「尊厳死を受け入れない」
ということは、残された家族の、
「自分を犠牲にする」
ということであり、
「それが、本当にモラルや倫理を守るということになるのか?」
ということである。
そういう意味で、
「帝の科学」
の考えるような生まれ変わりがあるとすれば、それは、
「尊厳死」
というものがあった場合だけということで、彼らの考えとすれば、
「近い将来、尊厳死が受け入れられる時代がやってくる」
ということで、彼らの存在意義というものは、
「尊厳死というものが認められる時代をもたらす」
ということになるのではないか?
ということであった。
しかし、そこでの問題として、
「生まれ変わりということであれば、同じ人間に生まれかわった場合、同じ人間として生まれ変わるわけではないのは、子供として生まれるからだ」
ということである。
だったら、別に同じ人間が存在しているということにはならないだろう。
それは、
「ドッペルゲンガーの発想」
ということであり、
「姿かたちが同じだ」
ということに絡んでくるということであろう。
実際に、
「尊厳死」
というものを受け入れて、死んでいった人が、まったく同じ瞬間に、誰かに生まれかわるということを考えると、
「先代教祖は、尊厳死だったのだろうか?」
ということになる。
実際にそうだったようで、そのことを知っているのは、
「一部の幹部」
ということで、このことは、
「墓場まで持っていく」
ということが使命づけられていたのだ。
つまり、
「帝の科学」
というものの幹部になるということは、
「教祖の死の真相というものを、墓場まで持っていく」
という運命を背負っているというのと同じことだということになるであろう。
そのことを知っているのは、実際に、
「一部の幹部」
の中でも、さらに
「一部の幹部」
ということになる。
それこそ、
「合わせ鏡」
などのような、
「限りなくゼロに近い無限のもの」
ということになるであろう。
そう考えた時、
「生まれ変わりというのであれば、子供として生まれるものなのか?」
それとも、
「死んだ状態そのままに生まれるものなのか?」
ということで、
「それのどちらが正しいのか?」
ということが分かるわけではない。
分かるとすれば、それは、
「一度死んでいった人間」
ということになるだろう。
「誰もが生まれ変われるわけではない」
ということになるわけなので、
「生まれ変わりというものを期待するというのはおかしい」
と言えるのではないだろうか?
大団円
そのあたりのことを、坂口は、勝手に想像した部分が大きいということであるが、その発想のおかげで、
「一つのSF小説ができる」
と感じたのだ。
ただ、一つ思ったのが、
「教団が秘密にしたいと思っていることに触れてはいけない」
ということであった。
実際には、
「教団は秘密を持たない」
ということであったが、それも、蓋を開ければ、
「木を隠すには森の中」
という発想からきているものだと思えば、
「普通に秘密にする」
ということから、
「SF小説」
ということを前面に出した、フィクションということであれば、却って、
「木を隠す」
ということになるのかも知れない。
坂口が書いた小説というのは、
「人が死んだ時に、誰かが生まれる」
というもので、これは、
「生まれたのは、死んだ人がいたから」
ということではないというのが前提であった。
つまり、
「死ぬ」
ということが、生まれ変わりになるということで、基本はあくまでも、
「生まれ変わりだ」
ということであった。
そして、ここで感じた矛盾であるが、
「死んだ時に生まれかわった人は、赤ん坊」
ということで、まったく同じ人に生まれ変わるというわけではないことから、SF小説などでよく言われる、
「ドッペルゲンガー」
というものではないということになる。
だが、
「生まれ変わりという発想をする場合は、あくまでも、死んだ時と同じ人間」
ということでの生まれ変わりということになると考えた時、
「その人が死んだ瞬間生まれ変わる」
ということでの矛盾が、
「死んで生まれ変わる」
という発想ではないことから、
「生まれ変わりとは言わないのではないだろうか?」
ということになるのであった。
そう思うと、坂口の中で、
「タイムスリップ」
という発想が生まれてきた。
そもそも、タイムスリップというのも、
「タイムパラドックス」
という発想からありえないと言われている。
つまり、
「自分が過去に行って、過去を変えてしまうと、進むべき、過去から見た未来が変わる」
ということで、
「現在に戻ることができない」
という矛盾が起こるということである。
だから、
「タイムマシンという発想はありえない」
とも言われているのだ。
だが、そもそも、
「生まれ変わりというのもあり得ない」
という発想であるとすれば、
「タイムパラドックスというものがありえない」
ということであれば、
「生まれ変わりの発想」
というのもありえないといえるだろう。
それを認めるということは、
「ドッペルゲンガー」
というものを見た時、
「近い将来に死んでしまう」
という都市伝説は、成立しないともいえるだろう。
というのも、
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
という都市伝説としては、
「タイムパラドックス」
というものの考え方を納得させるためのものという考えがあるからだ。
そういう意味で、
「帝の科学」
という宗教における、
「死んだらすぐに生まれ変わる」
作品名:【別説】神も仏もない 作家名:森本晃次



