【別説】神も仏もない
「まじめすぎる」
ということであったが、結局、別の教団に入信したということであった。
まじめすぎることから、相手の計略が分かっていなかったようで、その時は、
「帝の科学」
という組織の情報がほしかったということであった。
その教団は、当時、まったくの新興教団ということで、そもそも、どこの流派にも属していなかった。
いわゆる、企業でいえば、
「ベンチャー企業」
のようなものだといってもいいだろう。
その時の教祖も、幹部も、宗教団体というよりも、本当に、
「宗教のベンチャー企業」
といっても過言ではなかったことだろう。
宗教団体としてよりも、企業と言った方がいいくらいで、信者をまるで、
「お得意先」
と思っていたようだ。
だから、
「サービスをすれば、お金がもらえる」
「お金をもらおうとすれば、サービスをする」
という感覚である。
「宗教団体におけるサービスというと、何になるか?」
ということであるが、これは難しい。
「対価に値する」
ということで、商品なのか、相手が満足するようなものを提供するということで、普通なら、ピンとくるわけはない。
だから、
「宗教団体と企業とでは、そもそもが違うということになるのだろうが、この時、この団体は、独自のサービスを考えて、それなりの利益を得た」
というのも、彼らが利益を得られたというのは、
「サービス」
という言葉を、考えたからであろう。
これが、
「対価に値する」
というだけのことであれば、サービスというものに行きつくことはない。
実際に、
「根っからの商売人」
ということでもなければ、その発想は浮かばないだろう。
逆に、根っからの商売人ということであれば、
「宗教団体の中での対価に値するというものが何かの科?」
ということが分かるはずもない。
結局考えたことは、
「自分を犠牲にする」
という発想であり、
「自分を犠牲にするという発想は、倫理やモラルとは切り離すものだ」
という考え方であった。
「倫理やモラルというのは、基本的に、自分を犠牲にする」
ということになるだろう。
問題は、
「倫理やモラル」
というものを守るために、自分を犠牲にするということでは成り立たないという考えであった。
要するに、
「それらを天秤に架ける」
ということになるのだ。
実際に犠牲にするのは、自分なのに、結局犠牲になるのは、
「モラルか倫理」
ということであり、
「モラルと倫理のそれぞれが、同じことであるにも関わらず、その人それぞれで微妙に違っている」
ということに気づかないのである。
それを考えると、
「人間が、結論を得ることができなくなった時、自分の命も終わってしまう」
という考えがあり、
「本来であれば、まだまだ続いているはずの命が、考え方を変えなくならなければいけなくなってしまうと、いったん終えなければいけない」
ということになるのかも知れない。
それが、
「今の教団の考え方」
ということで、それが、生まれ変わりというものの発想ということであった。
生まれ変わるということは、
「まったく違う人間になって、全く違う人生を歩む」
ということになるだろう。
もし、この生まれ変わりというものが、実際にあるのだとすれば、
「今考えられている輪廻転生というものは、この世界を支配する考え方だ」
といってもいいだろう。
つまり、
「誰かが生まれるということは、必ず、生まれ変わり」
ということで、そこのは、
「死というものがある」
ということだ。
これは、
「ニワトリが先かタマゴが先か?」
ということで考えた時、
「必ず、ニワトリが先だ」
という発想になるということであろう。
つまりは、
「タマゴが先だ」
と考えたとすると、
「生まれることがスタートライン」
ということになり、それは、
「個人としての考え方」
といえるのではないだろうか。
確かに、
「人間の一生というのは、生まれた時から」
ということで、もしこれを、
「ニワトリから」
ということにすると、
「必ず、親という存在がかかわってくる」
ということになる。
つまりは、
「人間を個人」
として考えるとすれば、
「確かに、肉親というものは大切であるが、あくまでも、人生は個人個人のもの」
ということになる。
だから、
「自由な宗教」
という考え方は、あくまでも、
「個人中心主義」
ということになり、
「帝の科学」
という宗教団体は、
「自由な宗教」
ということなので、
「タマゴが先」
という発想になるべきであろう。
本来であれば、
「倫理やモラル」
というものと、
「個人の犠牲」
というものを天秤に架けるということは、
「考えれば考えるほど、袋小路に入ってしまい、限りなくゼロに近いものに近づいていく」
ということで、
「結局は、まるで合わせ鏡か、マトリョシカ人形のようになってしまう」
ということであろう。
それが、
「無限」
というものと、
「限りなくゼロに近い」
というものになる。
これらは、明らかに対になるというもので、
「同意語」
といってもいいだろう。
しかし、実際には、この二つのように、うまく理解できるものばかりではあいという世の中で、
「モラルと倫理」
というものと、
「自分を犠牲にする」
ということの理不尽さであったり、辻褄の合わないという発想から、
「自分にとっての頭の中での納得がいかない」
ということから、考えすぎてしまうと、
「そこで、命がいったん終わってしまうのではないか?」
というのが、
「帝の科学」
の考え方であった。
だから、彼らは、
「死」
というものに特別な感情を持っていた。
だから、
「尊厳死」
というものに対しても、
「自分たちの間では納得がいく」
という発想を持っていたのだが、その発想が、世間に受け入れられるわけはない。
なんといっても、
「宗教団体というものが、倫理やモラルに勝ってはいけない」
ということで、
「最後には、モラルや倫理が勝つ」
というのが、人間社会だということになっている。
何ごとにおいても、
「倫理やモラル」
というものが優先する。
というのが、宗教の世界ということであろう。
人間社会では、本当であれば、
「人間至上主義」
ということになる。
そうしないと、秩序が守られないということで、そもそも、
「個人主義」
といっても、その個人主義を優先できる土壌というものがないということになるだろう。
だから、個人主義というものを正しいとするのであれば、どこかで。
「モラルや倫理を最優先する」
ということを認めなければならない。
それを認めることで、
「そこに人間の死」
という、
「避けては通れないもの」
を担ぎ出すことで、理解させようということになるのではないだろうか?
だから、
「意識をしない死」
というものがあってもいいという考えである。
そして、
「死んだら死後の世界にいく」
ということで、生まれ変わるとしても、
「まったく違う人間に生まれ変わるのだ」
作品名:【別説】神も仏もない 作家名:森本晃次



