【別説】神も仏もない
表現は、まるで、記事のタイトルのようだが、実際には、どこまでの内容になるかというのは、
「取材で得た内容でなければ分からない」
ということになる。
ということは、
「取材の内容によっては、記事になるものではないものになる可能性もある」
ということであるが、そこからが、記者の実力の見せ所ということで、
「いかに、興味を引き記事にできるか?」
ということが問題だということだ。
編集長にしても、坂口にしても、今までの経験からいけば、記事にならないというようなことはなかったが、それでも、
「何とかできる」
という自負のようなものがあることから、本当は記事にできそうにもないと思うようなことであっても、記事にしてきた実績というのがあったのかも知れない。
それが、実力であるが、今回の取材も、
「他の人ではとても務まらないだろうな」
ということで、編集長も、坂口に任せたということであった。
「帝の科学」
への取材は、今までに何度か行われたことがあったという。
それは、他の編集者にも言えることで、結果として、
「どこの雑誌社も、特集として紙面を割くということはなかった」
ということである。
あったとすれば、
「以前に、ウワサとして、信者獲得に、政治家が絡んだ」
というものがあった時、
「宗教団体の闇」
ということで、一連の取材の中で記事になったというだけのことだった。
それでも、雑誌社としては、何度か、取材を試みたのだが、実際には、
「その内容が難しい」
ということで、
「宗教的」
であったり、
「倫理的なこと」
などに対して知識がないと、話にもついていけないということで、一言でいえば、
「取材陣をしても、理解できない人が記事にするなど、ありえない」
ということだったのだ。
理詰めでの説明ということで、他の宗教であれば、
「わざと記事にできないような、けむに巻くような話をする」
ということもあるだろう。
それも、
「記事にされたくない」
ということが裏にあるからで、他の宗教団体には、その考えがあるところが多かっただろう。
しかし、
「帝の科学」
には、そこまでの考えというのはなかった。
完全に、
「取材陣が教団の考え方というものについていけない」
というだけのことだったのだ。
教団は、そもそも、
「勉強会」
から始まったものだった。
宗教団体の形を取っているが、教祖といっても、その人は学校でいえば、
「まるで、校長先生」
という感じである。
勉強というもの、
「宗教といえば宗教であるが、生き方や人生への考え方」
という形のものであった。
昔からよく言われるような、
「死後の世界に救いを求める」
というものではなかった。
そもそも、ここの団体では、
「死後の世界」
というものをあまり意識させることはない。
あくまでも、
「今の世界を科学しよう」
という考えだったのだ。
だが、最近取材を進めていくうちに、
「どこか少しおかしい」
と思えるようになってきた。
というのは、それこそ、
「自転車操業がうまくいっていないのではないか?」
という会社を見ているようだった。
自転車操業というと、聞こえは悪いが、普通に考えると、そのやり方は、
「どの会社だってそうじゃないか?」
ということである。
つまりは、
「商売をするには、まず資本というものがいるわけだ」
ということで、考えかたとしては、
「タマゴが先かニワトリが先か?」
ということになるのだが、
「資本があって、そこから商売になるものを仕入れ、加工することで、それを客に売って、お金を儲ける」
というのが、商売の流れである。
そして、
「儲かったお金で、人件費や宣伝費、維持費や税金などという支出部分を賄って、さらに、その残りを資金として、最初のように、仕入れを行う」
ということになるのだ。
だから、
「資金がなければ、仕入れもできないし、支出が賄えない」
ということになるので、商売の基本は、
「売り上げを上げる」
ということである。
このように、資金から、売り上げや支出、そして最後に資金が残るという、回転式のものが商売ということで、まるで、自転車の車輪のように思うことから、
「自転車操業」
というのだ。
しかし、世間的に言われるのは、
「その自転車操業に余裕というものがないことで、売り上げを上げるためには、会員を増やさなければいけない「」
というまるで、
「会員を増やすということが至上命令」
というような場合、
「自転車操業」
ということで、あまりよく言われない。
だか、ほとんどの企業が、この
「自転車操業で回っている」
ということで、
「自転車操業」
という言葉への考え方を、世間でも改める必要があるのではないか?
といえるのではないだろうか?
ただ、坂口が
「帝の科学」
を見ていると、あまりいい傾向にはないと思うようになったのだ。
坂口は、この教団に対して、今回、取材を試みたことがなかった。
別に、
「言いくるめられるのが怖い」
というわけではなく、
「実際に取材するよりも、まわりから見ている方が分かることが多い」
と感じたからだ。
その理由として、
「あの教団は、何かを包み隠すということはない」
と考えられるからだ。
他の教団は、いや教団に限らず、
「どこか必ず後ろめたいところがある」
ということから、無意識に探られないようにするという素振りがあるものだ。
それがないということは、
「取材を試みるよりも、自分の見た目を信じるという方が、より多くのことを知ることができる」
という考えであった。
それを感じている記者も中にはいるのだろうが、その人たちが所属する出版社は、
「一社員の考え」
などというものを聞いてくれるわけもない。
編集会議などで決まったことを、忠実に実行するということが、正しいことだと思っているのだろう。
だから、
「決まってしまったことに対して、個人個人の意見が通るわけなどない」
ということになるのであった。
それが、
「他の編集者のやり方」
ということではないだろうか?
だが、坂口の編集者は、結構うまくいっているといってもいい。
それが、坂口のような編集者を生むといってもいいだろう。
坂口が感じたこととして、
「本当の自転車操業に入りかけている」
という風に、
「帝の科学」
が見えたのだった。
というのも、
「信者を増やそうとしている」
というのが見え隠れしているからだ。
確かに、
「自分たちのことを隠そうとしない」
ということで、今までと変わりない方針であれば、
「誰の目にも次第にそのことが見えてくる」
と考えられるのであるが、他の出版社の人から見れば、
「今までは、比較的良心的な宗教団体だと思っていたが、ここも、他と同じように、信者を増やすということで、何か営利を貪るようなところだったんだ」
という感覚になることだろう。
だが、本来であれば、
「そんなことはすぐに分かってしかるべき」
ということであるのに、今まで気づかなかったことが、
作品名:【別説】神も仏もない 作家名:森本晃次



