詐欺事件のフィクション
「彼らが、どうしてそこまで需要があるんだろう?」
と不思議に思うくらいだった。
コメンテイターと言えば聞こえはいいが、
「どうも、誰であっても、答えることは決まっている」
と思えてならない。
「原稿のようなものがあるのではないか?」
とも思えたが、
「あれくらいの原稿だったら、俺にだって書けるわ」
と思ったほどだ。
しかし、そもそも、良治は、小説という、
「フィクションを書く」
というのが、
「物書きとしての自分だ」
と思っていた。
よく、
「小説というものを、ノンフィクションも交えていう人がいるが、それってありなのだろうか?」
と考えていた。
「随筆やエッセイ、評論すら、小説よ同じような扱いを受けるものがある」
ということであるが、良治は、
「少なくとも、ノンフィクションは、小説とは認めない」
と思っていた。
あくまでも、
「作者オリジナルとして書かれたもの」
ということで、
「例外として、作者が自ら経験したものは、その人のオリジナル」
ということで、許されるものだと思っている。
特に、
「経験したことをそのまま書くようなことをせず、経験した自分が考えたり感じたことを、小説をして書く」
ということだからである。
他人が経験した事実というものは、客観的にしか見ることができないので、それは、
「事実として書くしかない」
ということで、どこまで言っても、
「ノンフィクションでしかない」
と考えると、
「自分で経験したことは、客観的にも主観的にも見ることができる」
ということで、
「小説の題材」
ということであれば、十分ではないかといえるであろう。
そういう意味で、
「朝の情報番組」
というものに、
「元お笑いタレント」
というのが出ることに、どうも賛成することはできなかったのだ。
もちろん、
「彼らも創作者」
ということで考えれば、
「偏見はいけない」
ということになるのだろうが、ここまで、
「どの時間のどのチャンネルの情報番組を見ても、お笑い芸人が必ず出てくる」
ということに対して、
「放送理念」
ということに、疑問を感じるのであった。
だから、
「情報番組」
というのは、基本的に、
「まじまじと見た」
ということはない。
それこそ、
「画面から流れている」
ということであり、何かをしながらというのがほとんどだ。
実際に、家にいて、何かをしながら、テレビをつけていると、そうなるしかないのだ。。
「一日のうちに、どれだけ情報番組が多いというのか?」
ということである。
実際に、朝から夕方までは、
「どのチャンネルも、情報番組しかない」
ということで、たまにあるとすれば、スポーツ中継くらいであろうか。
もっといえば、
「情報番組以外」
というと、
「バラエティ番組しかない」
ということで、それらは、そもそも、
「お笑いタレントのための番組」
ということで、ここでも、結局、
「お笑いタレント」
というものを見るしかないということだ。
実際に、今の時代は、
「民法を見る」
という人は少ない。
「有料放送」
ということで、
「ケーブルテレビなどを見る人が多い」
なんといっても、有料放送ということで、民放のように、
「スポンサー最優先」
ということはない。
当然のことながら、
「視聴者一番」
ということになるので、
「視聴者のために真剣に番組を作る」
ということになるだろう。
そういう意味では、依然と、
「スポンサー重視」
という民放であるから、番組作成が、
「バラエティ番組」
であったり、
「情報番組」
というような、お笑いタレントを使うという番組制作が、
「スポンサーが望むこと」
ということになるのだろう。
つまりは、
「それだけ、本当に視聴者の民放離れが進んだ」
といってもいいだろう。
しかも、今は、
「有料放送」
ですら、見る人が少なくなったのだ。
というのは、スマホの普及において、アプリによって、
「個人で、動画を簡単に配信できる」
という、
「ユーチューブ」
のようなSNSというものが発展してきたことで、
「家にはテレビも、パソコンもない」
という人が増えてきた。
つまりは、
「スマホ一つあれば、それで足りる」
という時代になってきたのであった。
そんな時代であったが、家にテレビはあるので、つけていた。
もっとも、その時代はまだ、やっとスマホが普及し始めた頃ということで、アプリもそこまで充実していなかったかも知れない。
ただ、
「どこまでいけば充実しているといえるのか?」
ということを考えれば、まだまだ先があるということで、それこそ、
「無限への、いたちごっこ」
のようなものではないだろうか。
家にあるテレビをいつものように、何も感じることなく、見ようとしているわけではなく目に入ってきたのだが、その光景に、一瞬、
「おや?」
と感じたのだ。
しっかりと見ていれば、
「見覚えのある景色だ」
ということを感じ、そこから先の感覚が浮かんでくるのだろうが、
「おや?」
と思ってから、
「どこかで見たような」
と感じるまでに、少し時間が掛かったのだ。
だから、自分が何に対して不思議に思ったのかということが分かったわけではない。そのことが、自分の中で苛立ちとなって、
「分からないということが、こんなに苛立ちを生むなんて」
と思うのだ。
普通であれば、すぐに気づかなくても、いら立ちまでは感じない。それだけ、
今までであれば、
「分からない」
といっても、後から、すぐに気づくだろうという思いに至らないということを感じるということになるのだろう。
「そんなに、忘れっぽくなったということか?」
と感じた。
それこそ、
「若年性痴呆症ではないか?」
と感じるほどで、これが、
「中年以降に感じるのであれば、イライラすることもないだろうに」
と思った。
「この年では、ありえないと思っていることが、実際に起こるかも知れない」
と感じるのは、それだけ、
「世の中は、何が起こるか分からない」
ということで、若い頃の方が、その可能性というものに、想像力が働かないということになるのだろう。
とは言っても、自分はまだその時は若いわけで、
「自分が想定できる以外のことは、考えられない」
と考えると、
「想定外のことが起これば、対応できるわけはない」
と思うのだ。
特に、
「まだ自分は学生なので、就職して働き出せば、想定外のことは、かなり広がるに違いない」
ということから、
「大人になるのが、怖い」
と考えている自分がいたりする。
実際に、その時の良治は、
「卒業も、就職も危なかった」
という状態であった。
実際に、
「二年生が終わった時点での単位の残し方が、ひどかった」
ということもあり、
「三年生で、すべてを取得するというのは、難しいだろう」
ということであった。
実際に、三年生が終わった時点で、
「就活をしながら、残りの卒業までの単位を修得するというのは、なかなか難しいのではないか?」
と言われた。
作品名:詐欺事件のフィクション 作家名:森本晃次



