詐欺事件のフィクション
「実際の本革や、合皮の臭いが混ざっているようで、少々慣れないと、いたたまれない」
という場所であった。
良治とすれば、
「別に嫌いな臭いではない」
と感じていて、むしろ、
「なつかしさがあるくらいだ」
ということであった。
きっと、
「慣れたんだろうな」
ということで、自分を納得させていたのだ。
納得できたからなのか、
「せっかくの食事が、あたりの臭いで、食欲が半減する」
ということはなかった。
「これは、本当においしい」
と思いながら、一膳めしを食べていたが、これも、
「昔懐かしい」
と思うことから、
「嫌な臭い」
という感覚がしなかったのだ。
そもそも、
「ケミカルの臭い」
というのが嫌いということではなかった。
あれは、小学生の頃だっただろうか。家の近くに、廃工場があった。
親からは、
「近づいちゃいけない」
と言われていた。
さすがに、廃工場ということで、
「いつ壊れるか分からない」
ということで、
「冒険心」
というものよりも、恐怖心の方が勝つということで、
「絶対に近寄ったりしない」
というのは、子供の間でも、
「暗黙の了解」
となっていた。
実は、その廃工場には、前から、
「オカルト話」
というものがあり、
「近づくと、妖怪が出る」
と言われていた。
しかも、その妖怪を見ると、自分が妖怪になって、誰かに自分を見せることで、入れ替わらないと、その場所から逃げることができないというものであった。
似たような話を、
「おとぎ話」
で見たことがあった。
それを見た時、子供心に、
「誰かを騙して、相手と入れ替わらないと、自分はそこから逃げられない」
ということであった。
しかも、その逃げられないという呪縛は、いったん妖怪になってしまうと、
「何千年もそこから動けず、ずっとたたずんでいないといけない」
ということの恐怖というものが、襲ってくるということであった。
「何が怖い」
といって、
「何千年も、そこから逃げることができず、じっと立っていないといけない」
ということが恐ろしいというのだ。
「不老不死というものを求めている妖怪がいる」
というが、
「自分が知っているまわりが皆死んだとしても、自分だけが、生き残っているということがどれほど恐ろしいか?」
ということになるのである。
だから、
「どこかで見た光景」
と感じたのは、
「おいしい食事をした場所」
という懐かしい思い出と、それと結びつかないという感覚のギャップを感じさせる、
「火事」
という、悪夢のような光景に、不思議な感覚が宿ったといってもいいだろう。
元々は、臭いのイメージから、
「いつ火事が起こっても無理もない場所」
という認識は持っていた。
「ただ、ケミカルな臭いが、そのまま火事に結びつく」
という感覚がなかったのは、
「子供の頃から感じていたケミカル工場で、火事があったという記憶はまったくなかった」
という印象からであろう。
「印象が、自分の中で記憶を作る」
という感覚であるが、
「記憶と意識」
というものが、交錯することで、
「記憶と意識、どっちが鮮明に覚えているのだろうか?」
と、まるで、夢に感じたことを、思い出すのであった。
「そもそも、記憶というのは、元々は意識というものであり、そこから派生するというものではないか?」
と思うのだった。
よく、
「記憶喪失」
というものになるというのを、サスペンスなどで見たりするが、その種類もいくつかあったりするというではないか。
「何かのショックから、記憶としては、頭の中にあるが、それを表に出すということが、怖い」
などという、一種のトラウマ的なものであったり、
「頭を打ったりして、本当に記憶というものが、頭に受けた障害で、消えてしまった」
などということもあるだろう。
ほとんどの場合は、
「トラウマ的なもの」
というのが、意識の中で、
「記憶として残さない」
ということから、記憶喪失というものにするという考えである。
だが、記憶というのは、
「覚えている」
ということで成立するものだ。
逆に、
「意識というのは、覚えているというだけではないわけで、覚えていることを、自分の 中で解釈し、理解しなければ、意識しているとは言えないのではないだろうか?」
だから、
「意識というものは、記憶の中から、トラウマとして忘れてしまったとしても、思い出そうという意識があり、思い出したいという意思があることで、実際に、理解できるところまで戻ってくる感覚があれば、それを、意識という」
ということになるのではないだろうか?
だから、
「記憶というものは、本当なのか嘘なのか?」
ということを考えた時、
「意識は、必ずしも、本当のことかどうか分からない」
ともいえる。
「自分で納得できるため」
ということで、嘘であっても、納得さえできるのであれば、それは本当のことだという考えを、
「意識として自分で処理することができれば、それは、
「確かな記憶として、残るものだ」
といえるだろう。
要するに、
「自分を納得さえさせられれば、自分の中で、すべてが、本当のことだといえるだろう」
つまり、
「まずは、意識すること」
というのは、人間にとっても、本当のことということであり、ただ、
「ウソである」
ということも、自分の中で納得できれば、それは、
「本当のことだ」
ということで、それを、
「正義という」
ということになるのだろう。
「正義」
というものが、意識と結びついてくると考えると、
「夢というのが、意識なのか、記憶なのか?」
と考えたらどうだろう?
「怖い夢が、まるで正夢のように、鮮明に残っている」
ということで、夢に見るということは、
「怖い夢というのは、記憶が見せる」
ということになるのかも知れない。
しかし、
「楽しい夢」
であったり、
「このまま見続けていたい」
と思うものは、
「自分の中で、納得させようとする」
ということから、
「肝心なところで、見ることができない」
という、
「自分を納得させようとすると、最後まで見せないというのが、夢というものだ」
と考えると、
「怖い夢であろうが、ずっと見て痛い夢であろうが、夢として納得させるには、夢というのを、意識させてはいけない」
ということから、
「もう一度見たい夢」
というものを、自分に納得させようとするならば、
「意識して、最後まで見ることができない」
ということにしないといけないということになるだろう。
だから、
「怖い夢というのは、記憶にある」
ということで、
「見ていたい夢」
であったり、
「楽しい夢」
というのは、
「意識してみるもの」
ということになるのではないだろうか?
そのことが、この時に見た。
「ケミカル工場の火事」
という夢を後になって時々見ることになるのだが、この夢は、
「怖い夢」
ということなのか?
それとも、
「もう一度見たい夢」
ということなのだろうか?
普段なら、すぐに分かりそうに思うことなのだが、どうにも、
「いたちごっこ」
作品名:詐欺事件のフィクション 作家名:森本晃次



