予知能力による抑止力
としては低いと思わせるのだ。
だから、佐土原にしかできないというような関係性が、
「一般的な可能性」
というものを凌駕すると考えるのであった。
そんなことを考えるようになると、
「そのうち、俺の時代が来ることになるかも知れないな」
と感じた。
それは、元々の性格の、
「躁鬱症」
における、
「鬱状態から、躁状態への移行時期」
ということから考えられることなのかも知れない。
その状況を一変させた事件が起こったその日は、朝から、
「何か、予感めいたものがある」
と感じていた。
今まで予感めいたものというのがある時というのは、
「たいてい、ロクなことがなかった」
ということであったが、気持ちだけは、
「今度こそ、いいことであってほしい」
という願望が強かったということから、心の中では、
「ああ、今回もどうせ、ロクなことはない」
という思いが次第に強くなってくる。
逆にいえば、
「気持ち的には、わくわくしていることで、実際にダメだった時のための、自分への言い訳」
ということで、
「どうせダメなんだ」
という思いを並行して抱くということにしないと、自分を納得させられないということである。
この感覚が身についたのは、
「いじめられっ子」
というものを、ずっと感じてきた、いや、
「演じてきた」
ということが一番の理由なのかも知れない。
「この日の気持ちは、自分の中で、やっと、鬱状態を抜けることができた」
と感じた頃のことであった。
というのは、
「目の前に見えている信号の色が、明らかな緑色だった」
ということからである。
うつ状態独特の、
「けだるさ」
というものが、次第に薄れていき、そのかわり、それまではあまり感じるという意識のなかった風を感じるのであった。
うつ状態であれば、感じる風というのは、突風のような、
「顔に刺さる」
という感覚が多かったのだが、今は、そよ風のような心地よさというものを感じることができるのであった。
そのせいもあってか、
「そよ風というものが、ここまで心地よいとは」
と感じたのだ。
人から聞く話で、
「そよ側は気持ちいい」
とは聞いたことがあったが、
「気持ちいい」
と感じる風を味わったことがないだけに、そもそも、
「そよ風というのがどういうものなのか?」
ということが分かっていないといってもいいだろう。
「言葉としての定義」
ということがよく分かっていないというだけに、そもそもの、
「心地よさ」
というものが分かるはずがない。
そんな中で、
「快感」
という言葉が頭をよぎるのだが、それは、自分の中で、味わった中の、
「いじめられている」
という時の中にあったような気がした。
実際に、最近、いじめが減ってきたと思う中で、本当であれば、
「よかった。これで、かなり精神的に余裕がもてる」
と感じているはずなのに、どちらかというと、
「物足りなさ」
というようなものがあるようで、
「今の自分の感じているものというのが、本当に自分で正しいことだ」
といえるのだろうか?
苛めがいやだと思っていながら、いじめがなくなると、寂しさや物足りなさというものが出てくるという感覚が、自分の中に、
「異常性癖」
というものを感じさせる。
それが、いわゆる、
「SM」
というものだということも分かってきた。
「いじめられながら、最初は怖いと思っていたはずなのに、次第に、快感に変わってくる」
というのは、
「脅迫」
という、
「もっと恐ろしいものに怖さの焦点が移っていった」
ということからであろうか。
しかし、実際には、
「苛め」
というものと、
「脅迫される」
という、両方の恐怖というものを、自分の中で、
「相殺できる」
というようなテクニックが生まれてきたのかも知れないと感じるようになってきたのであった。
それが、いいことだとはまったく思わない。
「波風を立てずに生きている」
というのが一番いいわけで、それを、物足りないと感じるということは、自分の中で、本来であれば、
「逃れられた悦び」
というのが、別の意味で、
「自分を凌駕する何か」
というものを感じさせるということになるのだろう。
その日は、今までとまったく違わない朝であった。
「いつものように、家で朝食を食べ、いつもの時間の電車に乗るためび、駅に向かう」
家を出る時間も変わりなく、駅に着いた時間も、いつものように、電車が到着する7分前であった。
家から駅までは、徒歩で約15分くらい、出る時間さえ同じにしておけば、途中、時計など気にすることもなく、同じくらいの時間につけるというものだ。
そもそも、
「7分もある」
ということなので、それだけでも、
「乗り遅れる」
という心配などあるわけはないのだった。
心配なのは、
「乗り遅れる」
ということではなく、
「駅についてからの待ち時間」
というものと、
「その間、ホームにどれだけの人がいるから、乗り込んだ時、電車の中でのポジションがどのあたりになるか?」
ということであった。
なんといっても、学校にいく時の、
「いつもの時間」
というのは、
「朝のラッシュの一番混む」
と言われる時間で、昔であれば、
「押し込み屋」
という連中に、背中を押されて、完全な、
「惜しくらまんじゅう状態」
ということになるというものだろう。
それを考えると、
「自分の中でのポジション」
というものを最初から見ておかないと、
「朝から疲れてしまう」
ということになる。
朝から疲れるということは、自分にとって、致命的な感覚である。せめて、
「自分だけの時間」
というものを自由に使えないと、その日の自分が、
「他人によって支配されることになる」
ということが決定しているかのように思うからだった。
実際に、どこまでその予感が当たるかというのは分からないが、少なくとも、
「自分が納得できる」
ということにはならないだけに、ロクなことにならないといえるであろう。
この日も、他の日と同じで、
「特別なことは何もない」
という日であった。
「きっと他の人だったら、今日が特別な日であると感じることが、悦びとなるのだろうが、俺のような人間には、平凡こそが、唯一の安穏だ」
といえるのではないだろうか?
だから、その日も、いつもと変わらぬ朝を迎えられたということに感謝したいという気持ちになっていたのだった。
実際に、電車の中はいつもと変わりない込み具合で、あまり奥に押し込まれることを嫌う佐土原は、いつも、
「扉側に立っていた」
ということであった。
人にもまれるようなところに立っていると、身体のバランスが保てず、足に余計な力が入ることで、腰や足首などという、
「本来なら、直接関係のない」
と思うようなところに余計な力が入ることで、その日一日の身体のバランスが崩れると思っていたのだ。
だから、いつもは、窓際に押されるように立っていた。
窓際というのは、表が一番よく見えるところであり、
「気を散らす」
という意味で、一番いい環境にあるといってもいいだろう。
作品名:予知能力による抑止力 作家名:森本晃次



