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予知能力による抑止力

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「平成に入ると、昭和のいわゆる、古き良き時代というものは消え去ってしまっていた」
 というのは、
「平成に入ってから、最初は、バブル景気というものに酔っていたが、それがいきなり崩壊することで、世間が、まったくそれまでと違う状態にならざるを得ない」
 というようになってしまった。
「苛め」
 というものも、昭和の頃も、確かに、
「まわりに知られないように裏で虐める」
 ということがあったが、平成になると、その苛めに道徳やモラルという考えが失われていった。
 昭和時代であれば、いじめっ子としても、
「自分がされて嫌なことは相手にはしない」
 というモラルのようなものがあった。
 いじめをするには、それだけの理由があったというのが、昭和の苛めであった。
 だからこそ、
「いじめられる側にも、自分にも落ち度がある」
 ということに気づいた時、虐める側との間に和解が成立するということがあるのだろう。
 しかし、平成になってからの苛めは、
「虐められる側にも現認があるなし」
 ということは関係ない。
 虐める側が、
「ストレス解消できればそれでいい」
 ということで、そもそも、理由もないのだから、いじめが収まるための、話し合いも、反省というのもないのである。
 もし、
「虐められる側に理由があった」
 ということで、いじめられる側が変わったとしても、いじめがなくなるということではない。
「虐める側のストレスが解消される」
 というわけではないからだ。
 逆に、
「余計なことに気づきやがって」
 とばかりに、自分たちの大義名分が崩れる可能性があることを、却って、忌々しいと思うことにつながりかねないということで、
「苛めが却ってエスカレートする」
 ということになるのだろう。
「これが、中学生くらいであれば、苛めの一般的な例としては、
「虐めるターゲットになるやつに、万引きをさせる」
 ということなどが多いのではないだろうか、
 もちろん、
「万引きをしてきたものを、いじめっ子がほしい」
 というわけではない。
「万引き」
 という犯罪を犯させることで、いじめられっ子の中に、ジレンマを押し付けようという考えである。
 誰もが、
「万引きは悪いことだ」
 ということは分かっている。
「それを、いじめの対象になっているやつにやらせて、その時に感じるであろう、罪悪感と、やめることができないことでの、自分に対しての嫌悪感を同時に味合わせることで、見ている自分が、優越感に浸る」
 というのがいじめの正体だったりするのだ。
 要するに、
「苦しんでいるところを見て楽しむ」
 ということである。
 そのためには、
「いじめられっ子に対して、ジレンマに陥らせる」
 ということが一番であり、そんなジレンマに陥って苦しんでいる姿を見ることが、いじめっ子にとっては、
「これ以上の優越感はない」
 ということになるだろう。
 実際に、いじめられっ子である佐土原という男を、虐めている集団があるということは知っていたが、今までは、何の興味もなかったのだが、そんな時、実際に、
「佐土原が、万引きをさせられている」
 という場面を見たのが、
「クラスメイトの鈴村」
 であった。
 鈴村は、クラスメイトの皆から、一目置かれているといってもよかった。
 昭和時代の、
「ガキ大将」
 という雰囲気でもないが、それなりのオーラのようなものがあるのであった。
 どちらかというと、
「人にあまり関心を持たない」
 という方で、実際に友達もほとんどおらず、
「いつも一人でいる」
 という男であった。
 しかし、実際に、一人でいるというのが、似合っていて、
「人とつるんでいるところなど、見たくはない」
 というほどに、
「孤立無援」
 という状況を、
「格好いい」
 と感じさせるようなタイプの人間だったのだ。
「一匹狼」
 というような性格の人は、クラスに一人くらいはいるだろう。
 オーラを放っていることから、誰も彼を相手にしようとはしない。だから、
「グループに引き込もう」
 という発想もないということであった。
 だから、彼はいつも、
「単独行動」
 であり、逆に、つるんでいる連中からは
「そっちの方がありがたい」
 と思われていたのだ。
「敵に回せば、これ以上怖いやつはいないが、味方にすれば、これほど心強いことはない」
 と考えていた。
 だから、
「味方に引き入れられないということであれば、後は、敵に回したくない」
 ということになるので、
「こちらの味方になってくれないのであれば、単独行動で、どこにも属さないということで、敵対しない」
 ということが一番ありがたいということになるのだ。
 それを考えると、
「そもそも、鈴村には関わらない方がいい」
 と思えばよかったのだ。
 鈴村とすれば、小学生の頃までは、
「仲間や友達がほしい」
 という、ごく当たり前の子供としても気持ちというのを持っていた。
 しかし、まわりが次第に、自分に警戒してくるということを感じると、最初は、
「怖がられているんだろうな」
 という感覚で、その思いが、実は、
「半分当たっていて、半分違っている」
 ということに気づいていなかった。
「確かに怖がられてはいるのだが、本当は、味方にしたい」
 と思っている人がたくさんいたということに気づいていなかったのだ。
 どうしても、まわりの目を気にしてしまうと、時分からまわりを遠ざけるという感覚になるということを、中学生になった頃に気づいたのであった。
 その感覚に気づくというのは、
「結構早いのではないか?」
 とまわりは思うことだろう、
 しかし、本人は、まわりを遠ざけていることで、水準というものを分かっていない。
 だからこそ、
「早いのか遅いのか分からない」
 ということから、余計に、
「まわりを遠ざけてしまう」
 という、まるで、
「交わることのない平行線」
 というものを、自分から描いているかのようであった。
 だが、
「自分は、中学生になった時、これで大人の仲間入りだ」
 と考えたのも、自分では無理もないことだと考えていた。
 しかし、実際に、中学生に入ったくらいでは、本当はまだ子供だといってもいいくらいだが、それを感じさせないという感覚は、
「思春期に入った」
 ということからであろう。
 自分の心境が、自分の意思にかかわらず、いろいろ考えさせるだけの力があることに気づくと、
「これが、大人になるということなのだろうか?」
 と考え、それこそ、
「他の人と関わらない」
 という発想から生まれてくるのではないかと感じるのであった。
 そもそも思春期という言葉は知っていたが、それは、テレビやマンガなどで得られた情報。その人の性格によって、考え方は、どのようにでもなるというもので、
「思春期というものが大人への入り口だ」
 と考えると、
「ここで大人になっておかないと、取り残されてしまう」
 と考えてしまうのだった。
「そもそも、大人というのは何なのだろうか?」
 ということである。
 小学生の頃まで感じていた大人」
 というものと、
「中学生になってから感じる大人」
 というものとでは、明らかに違っている。
作品名:予知能力による抑止力 作家名:森本晃次