予知能力による抑止力
「自分が子供の頃にいわれて嫌だったことを、自分の子供ができれば、平気で子供にいうではないか?」
ということである。
実際に、
「大人になっても、いや、結婚をした時であっても、自分の子供には、自分が親からされて嫌だったことをするなんてできない」
と思っていることであろう。
しかし、実際に、
「親になると、してしまう」
という人がほとんどだろう。
佐土原は、もちろん、まだ高校生なので、結婚も子供も縁遠いことであるので、
「俺は、親と同じことはしない」
と感じているのだった。
だが、この理屈を考えた時、
「親になった途端、子供の頃のことを忘れるのか?」
ということなのか、
「教育しないといけない」
ということで、自分が今まで信じていたことは、
「自分を納得させることができない」
ということになるということから、
「納得させられない」
という事実から、
「結局は、自分の親と同じことをしている」
ということにしかならないということになるのであろう。
だから、一種の、
「逃げ」
ということであり、それを大人になると、
「仕方がないこと」
ということで、必死になって言い訳というものを考えることになるといえるであろう。
彼女が、気になったのは、
「自分の学校の生徒ではない」
ということからであった。
正直にいえば、佐土原というのは、
「制服フェチ」
であった。
女子高生の制服には、かなりの興味があった。
それは、
「思春期になった時に、いじめっ子連中に見せられた、エッチ本」
というのが原因であった。
DVDや、ネットでの動画というのが当たり前のこの時代、
「アナログ」
といってもいい、写真集のようなものだったのだ。
いじめっ子たちとすれば、
「佐土原なんだから、こんなものでいいだろう」
ということで、面白半分ということで見せただけだった。
実際に、今でも田舎の方にいけば、
「いかがわしい自動販売機」
というものが存在しているようで、
「カバーと中身がまったく違っている」
というような本であったり、
「大人のおもちゃ」
と呼ばれるようなものが売っていたりいうものだ。
中学生の頃、いじめっ子から、
「あの販売機で買ってこい」
と言われて、買いにいったものだ。
しかし、それも、買いに行かせた方とすれば、
「羞恥心を味わわせてやる」
ということで、
「苛めの一環」
ということであったが、実際には、
「苛めでも何でもなく、俺がドキドキできる」
ということで、逆にありがたかった。
自分一人の場合は、
「自分を納得させることができない」
ということで、
「一歩踏み出す」
ということはできなかったことだろう。
しかし、
「いじめっ子にさせられている」
ということであれば、
「俺の意思ではない」
ということを免罪符にできるということで、さらなるドキドキというものを、
「羞恥心」
というものをオブラートに包んで味わうことができるというものだ。
しかも、
「命令」
ということで自分を納得させることができる。
つまりは、
「苛めというのも、免罪符として使える」
ということに気づかせてくれたということでもあったのだ。
だから、この免罪符というものがあることで、
「電車で痴漢されていた」
という女を、
「俺が蹂躙する」
というのも、まるで、
「与えられた権利」
であるかのように思うのだった。
それこそ、
「生殺与奪の権利」
と呼ばれる権利というものと、同じ発想ではないか?
と感じるのだった。
「生殺与奪」
つまり、人の生き死にというものを、与えたり奪ったりできる」
という権利である。
本来であれば、
「平等」
という観点からはありえないといってもいい。
実際に、
「簡単に人の命を奪うことができた」
と言われる、
「奴隷制度などが公然としてあった古代という時代」
においても、
「生殺与奪の権利」
というものの考え方は、シビアなものであった。
というのは、
「人間としての権利」
というものを、
「人間全員に与えるかどうか?」
という考え方で、
「人間ではないと言われる奴隷に対しては、生殺与奪の権利を行使することができる」
と考えれば、
「奴隷は人間ではない」
ということが、当たり前の時代だったということであろう。
実際に、聖書の中で、
「モーゼによる奴隷解放」
というものから、
「奴隷も人間であり、人間はすべて平等なのだ」
ということであれば、
「その範囲を、すべての動物にも言えるのではないか?」
ということになると、話が変わってくる。
確かに、
「人間だけ」
というのは、
「エゴである」
と言われるかも知れないが、
「自然界の摂理」
ということを考えると、
「生命が生き残る」
ということは、
「弱肉強食」
ということが基本であり、そのためには、
「命を奪う」
というのも仕方がないということになるだろう。
しかし、
「私利私欲」
であったり、
「生きていく」
ということ以外で殺しあうというのは、
「人間だけにいえることだ」
ということになる。
つまりは、
「生きていくため」
ということでの、
「自然の摂理」
ということだけを考えるのであれば、そもそも、
「生殺与奪の権利」
という考え方自体、存在意義がないといってもいいのではないだろうか?
「世の中において、自然の摂理というものが、人間の中において、生存のために納得させる免罪符だ」
と言えるのではないだろうか。
つまり人間は、
「生きていくうえで、その時々で、自分を納得させなければいけない」
ということになる。
だが、それを毎回いちいち納得する行為を覚えなければいけないというのは大変なことであることから、
「無意識のうちに。自分を納得させる」
ということを行わせる力というものを潜在的に持たせるということにしたのだろう。
それが、
「潜在能力」
というもので、
「超能力」
というものに、近い存在ではあるが、それを大っぴらに考えてしまうと、
「潜在能力」
というものが、そもそもの意味である、
「自分を納得させる」
ということができなくなるのではないか?
と考えられる。
だが、人間には、
「羞恥心」
というものがあり、それが、人間の中での犯罪というものに、影響してくるということを考えると、
「どこまでが、神の領域なのか?」
と考えさせられる。
そもそも、
「羞恥心」
というものがあるにも関わらず、
「子作り」
というものをすることで、
「子々孫々に人間の繁栄をもたらす」
ということにはならない。
しかし、
「男女のセックス」
という行為は、あくまでも、
「子孫を残す」
ということで、人間にとって、一番大切なことのはずである。
これは、
「食事をする」
「睡眠を摂る」
ということと同じくらいに、必要なことである。。
しかし、
「食事や睡眠」
というものに、羞恥心というものはほとんどないといってもいいのに、
「セックス」
作品名:予知能力による抑止力 作家名:森本晃次



