予知能力による抑止力
というだけのことで、ただ、証拠は握られているのは確かなだけに、何が怖いといって、
「どのようにされるか、見当もつかない」
ということほど怖いことはないということになるだろう。
もっと言えば、
「得体が知れない」
ということが怖かった。
相手は、学生服の高校生で、見るからに、どう見ても不良っぽくはなく、むしろ、
「気が弱い少年」
というイメージしかない。
だから、うまくやれば、
「相手を操縦することだってできる」
といえるだろう。
だが、この時に感じた恐怖心は、とても、逆らうなどという発想が生まれるものではないといえるだろう。
実際に、佐土原は、
「女性というものを知らない」
つまりは、
「童貞」
ということだ。
それだけに、
「女性に対して、怖さというものはなかった」
むしろ、同級生の女の子の方が怖いと感じるほどである、
それは、
「いじめっ子」
という意味で見るからだ。
実際に、小学生の頃は、
「女の子から虐められる」
ということも多く、却って、
「女の子の方が、えげつなかった」
と感じる。
そもそも、小学生くらいというと、女の子の方が、男子よりも、
「成長が早い」
ということで、
「女の子の方が、ガタイがでかいし、やることはえげつない」
と思っていたのだ。
実際に、中学以上の苛めで、
「女性同士」
ということになると、そのひどさというのは、
「言語道断」
といってもいいくらいであった。
「どうしても、思春期であれば、男性は女性に対して遠慮があったり、警戒の念というものあると言われているからであろう」
どこまでが、そんな発想になるのかというと、ハッキリしないとことがあるというだけに、男性も女性もお互いに、探りあっているところがあるのであった。
ただ、これも一概に言えることではなく、
「個人差によるものだ」
といってもいいだろう。
中学生から高校生になる間に、次第に男子の方の成長が著しいといってもいいだろうが、それは肉体的なことであり、精神的には、
「女性の方が、発育は早い」
といってもいいかも知れない。
昔から、
「男尊女卑」
と言われてきたが、今考えれば、
「男性が、じょお性を恐れていることから生まれた発想ではないだろうか?」
と考える。
そもそも、古代の王というと、
「女性が王になった方が、国が収まる」
と呼ばれていた時代があった。
特に、
「邪馬台国の卑弥呼」
という女王は、その象徴ではないだろうか?
今でこそ、
「女性天皇」
というものはいなくなったが、
「聖徳太子(厩戸王)が摂政をした推古天皇に始まり、平安時代くらいまでは、実際に、2代に一人は、女性天皇」
と言われた時期もあったではないか。
しかも、
「重祖」
と言われる、
「天皇が一度退位して、上皇になってから、さらに即位して天皇になる」
ということが二度あったというが、その両方ともが、
「女性だった」
という事実がある。
もちろん、時代背景もあっただろうが、少なくとも、時の天皇が、男性天皇で、うまくいかなかったから、急遽、前の天皇を再度、重祖させるということになったのだろう。
実際に女性天皇の中には、
「最悪」
と呼ばれるような天皇もいたが、それでも、女性天皇が多かったというのは、今とは考えかたがかなり違ったということおいえるであろう。
ただ、一つ言えることとして、
「当時の、蘇我氏であったり、藤原氏」
などと言われる、権力の頂点に上り詰めた豪族や貴族が、
「天皇の力」
というものを利用して、さらなる権力をと考えることで、
「自分たちに都合のいい天皇を即位させる」
ということが行われたというのも事実であった。
結果的に、
「今も昔も、天皇の権威」
というものを利用する輩が出てくるということに変わりはないということであろう。
もっとも、
「今」
というのは、大東亜戦争までの、
「大日本帝国」
の時代までということであり、この大日本帝国というのは、
「最後の最期で、その天皇の権力というものを、神として祀り上げることで、最高の権力を使った」
といえるかも知れない。
それ以降の日本では、
「天皇の力」
というものは一切なく、民主主義の国として、
「自由と平等」
というものを目指すということになったのだ。
すべてよかったということではないだろうが、少なくとも、自由が得ることができたといってもいい。
だが、果たしてそうだろうか?
だとすれば、そもそも、
「苛めなるものが起こるはずがない」
といってもいだろう。
その理由として、民主主義が、
「自由と平等」
と言われているが、実際には、その二つが並び立つということはないという考えからではないだろうか。
というのは、
「自由」
というものを前面に押し出す形での民主主義なので、
「平等」
というものが、おろそかにされてしあう。
「貧富の差」
であったり、
「組織の秩序を守るために必要」
ということでの、
「階級」
というものではないものが、蔓延ってくると、それは、
「平等をないがしろにしている」
といってもいいだろう。
最近の佐土原は、
「自分がいじめられっ子」
ということで、
「自由がある中で、平等を手に入れようとすれば、どこかに歪というものが生まれる」
と考えるようになった。
そもそも、
「苛め」
という存在が、
「平等の精神に反する」
ということで、そもそも、
「自由でもないではないか?」
ということになるのだ。
だから、
「自由というものを考えた時、平等をないがしろにしても仕方がない」
と考えると、
「世間というものが、どれだけ個人に対して他人事になっているのか?」
ということが分かるというものである。
「実際に、自分たちが、悪魔になっている」
ということを分かっていない人が多いので、実際に、悪魔と言われる人たちは、
「本当に悪魔なのだろか?」
とも考える。
そういう意味では、佐土原は、
「自分の中に悪魔が潜んでいるのではないか?」
ということを、最近特に感じているようであった。
それが、
「理屈で考えることでたどり着いた結論という発想から生まれた悪魔だというものではないか?」
と考えるのであった。
バランスと距離感
佐土原は、電車の中で、
「痴漢されていた女性」
を、脅迫のターゲットにしたのだった。
だから、
「俺は悪魔なんだ」
と感じたのであり、そもそも、
「いじめられっ子であった自分がされて嫌なことを、他の人にする」
ということは、どういう神経なのかといえるのではないだろうか?
確かに、
「自分がされて嫌なことを、他の人にする」
という心境は、普通であれば、考えられないといえるであろう。
しかし、人間というのは、意外とそういうところがあるということで、たとえば、
「子供が、親からされた仕打ちで、いやだと思うことは、自分が親になった時、絶対にしないようにしよう」
と考えるものではないだろうか。
しかし、実際に大人になると、
作品名:予知能力による抑止力 作家名:森本晃次



