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予知夢を見るということ

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「夢なら早く覚めてほしい」
 と感じることはない。
「夢だと分かれば、目が覚める」
 ということで、夢だと思い込みさえすればいいのだ。
 だが、目が覚めてしまうということは、
「これが予知夢だ」
 ということを自分で証明したことになる。
 だが、
「夢というのは、いい夢であろうが、悪夢であろうが、最後まで見ることはできない」
 と思っている。
 だから、悪夢であれば、
「よかった。夢だったんだ」
 と思うし、いい夢であれば、
「このままもう一度眠りにつけば、同じ夢が見れるかも知れない」
 という衝動に駆られたりするのであった。
 しかし、いい夢を再度見ることはできない。
 しかし、悪夢はそこで終わるので、それに越したことはないのだ。
 だが、頼子の場合は、それが予知夢だったりすることで、不安は解消するわけではない、
 しかし、逆に言えば、
「悪夢を見たとして、それが、現実になっても、その後問題になるようなことはない」
 ということで、
「逆に予知夢というのは、悪いこととは言えないのではないか?」
 と、思えばいいのに、前はそんな風にはどうしても思えなかった。
 しかし、
「本質を知った」
 という今であれば、
「私にとって、予知夢というのは、悪いことばかりではない」
 と感じるのだ。
 それが、
「楽天的な考え方」
 ということで、
「どうして今まで、そう思えなかったんだろうか?」
 と感じてしまう。
「楽天的な考え方」
 というのは、
「むしろ夫の方だ」
 と思っていたことから、いつも旦那を見ていて、
「あんな風にしていれば、自分も楽天的になれるのかも?」
 と考えていた。
 実際に、その態度は、
「楽天的な考え方をしている」
 という態度に満ち溢れているようだった。
 それこそ、
「鏡を見ているようだ」
 ということで、実は見ている鏡は、
「本当に左右が反転している」
 という鏡だったのだ。
 そういう意味で、
「反面教師」
 と言われるが。それこそが、鏡を見ている感覚になるということなのであろう。
 ただ、その鏡という感覚を、実際には思っているはずだったのに、それが必要以上に、
「感じないようにしよう」
 と思うのは、
「自分が楽天的になれない」
 という考えから、まるで、
「路傍の石」
 の感覚になっていたのだろう。
 なるべくなら、
「見られたくはない」
 という感情があることで、
「鏡に映った自分」
 というものは、他人に意識されてはいけないと考えるのであった。

                 誤解?

 その日の夜。桜木が会社から帰ろうとした時、一人の女が声を掛けてきた。最初は誰か分からなかったのだが、
「桜木さん」
 と言った時、どこか分からないが、
「聞き覚えのある訛り」
 というのがあったのだ。
 それが東北訛りなのか、九州訛りなのか分からないが、なつかしさというものを感じた。
 ただ、この懐かしく感じられる訛りというのは、
「年寄りが使う訛り」
 という感覚があった。
 そこで思い出したのが、
「三角教団の中にいた時」
 ということであった。
 まだ、母親がいるかも知れないという三角教団。すでに、抜けてから10年近くが経つことで、自分としては、
「すっかり過去のことだ」
 と思っていた。
 あれから、大学にもいき、就職もした。さらに、今は結婚もして、
「普通の生活」
 というものに戻っていたのだ。
 今から思えば、あの、
「三角教団」
 での生活は、
「まったく正反対のものだ」
 といっておいいだろう。
 あの頃は、
「比較的自由だ」
 と思っていたが、今から思えば、
「自由なんかなかった気がするな」
 ということであるが、それが、
「大人と子供の感覚」
 ということでの違いだと感じたのだった。
 教団にいる間は、自分は子供尾だったので、
「責任というものは一切ない」
 ということであった。
 つまりは、
「大人がいうことを素直に聞いていればそれでよかった」
 ということである。
 そのために、
「少々自由がないとしても、それはしょうがないことだ」
 という、一種の冷めた考えを持っていた。
 しかし、母親に連れられて、家族から離れて、教団という家族の中に入ったのだから、
「その世界が自分にとっての、有限の世界」
 ということだったのだ。
 実際に、一般の学校にも通えたということで、他の子供と比べても、
「自由はこっちの方があるかも知れないな」
 と思うのだった。
 なんといっても、皆、
「親がいうから、帰らないといけない」
 と言ったり、
「親がしてはいけないというから」
 ということで、皆自分の中に、結界を作っていたのだ。
 それを当たり前ということで、皆考えている。しかも、
「自由がない」
 とは思っていないのだ。
 それこそ、大人になって感じた、
「路傍の石」
 のようではないか。
 つまりは、
「教団にいる時の方がよほど自由だったんだ」
 と思うのだ。
 その根拠として、
「すべてを、自分で納得して考えることができるから」
 と感じることで、その時であれば、
「決して、自分は路傍の石などではない」
 と思ったことだろう。
 ただ、大人になると、
「路傍の石」
 であることの方が絶対にいい。
 と思うようになった。
 もちろん、
「ずっと、路傍の石であってほしい」
 というわけではなく、
「路傍の石になれる時がある方が、自分にとって得となる」
 と思えるからなのか、それとも、
「路傍の石になれると意識しているだけで、余裕を持った気持ちを持つことができるのではないか?」
 ということであった。
 それが、
「自分というものを見失わない」
 ということになるのではないかと感じるのであった。
「自分を見失い」
 ということは、
「誤解」
 ということになる。
 この
「誤解」
 というのは、
「自分が陥る誤解」
 というのもあれば、
「まわりが勘違いをする」
 ということもあるというものである。
 そういう意味で、
「デジャブ」
 であったり、
「鏡」
 などというのも、その不思議な感覚というのは、
「誤解というものからくる」
 といえるのではないだろうか?
「誤解」
 という言葉に類似したものとして、
「勘違い」
 というものがある。
「誤解と勘違い」
 というものは、一見、
「同じもの」
 と思われがちであるが、実際には違うものである。
「誤解というのは、物事を違う解釈で考えてしまうことで、解き明かしてはいるのだが、違う解釈に陥った場合」
 ということである。
「勘違いというのは、うっかり解釈を間違えてしまった」
 ということになる。
 つまりは、
「誤解というのは、間違えたことを意識していない場合であり、勘違いというのは、後から考えた時、解釈を間違っていたと自分で意識すること」
 ということになるのだ。
 つまり、
「勘違いということであれば、正しいものに対して、自分で解釈をやり直すことができる」
 ということであるが、
「誤解というものは、間違った解釈を解く必要がある」
 ということで、