予知夢を見るということ
踏んでしまうと、自分の足が痛いということは、本能で分かっている。だから、痛い思いをしないように、なるべくは踏まないようにするのが、人情というものである。
しかし、無意識であれば、踏み込んだ後で、
「何だ、こんなところに石があったんだ」
ということで、自分でもびっくりすることだろう。
そして、言い訳として、
「考え事でもしていたんだろうな」
と感じるに違いない。
それを考えると、
「路傍の石」
ということに対して、その感覚の存在を、
「自分で知っているか、知らないか?」
ということで、何かが違ってくると思うのだった。
他の人であれば、そこまで考えないだろうが、
「予知夢」
というものを見るという意識があることと、
「性格的に、神経質だ」
という本質を知った今では、桜木は、
「予知夢と、神経質な性格」
ということの関係性を感じるのだった。
しかも、自分のように、
「本質と予知夢が正反対」
ということに何かの意味があるのではないかと考えると、妻の場合も、同じように、
「本質と、予知夢が違っている」
ということで、しかも、
「自分とは、まったくの正反対」
ということに、
「何か意味があるのではないだろうか?」
とも考えられるのであった。
そのことは、妻との会話の中で、深くが言及しなかった。
「路傍の石」
という話にまで言及すると、
「一日や二日では終わらない」
と思ったからだ。
しかし、お互いに、
「勘違いをしていた」
ということに変わりはないようで、それについて、
「いずれは、言及する必要はある」
と感じるのだった。
「やっぱり俺は、性格的に神経質なんだろうな」
と今さらながらに思うのだった。
また、
「予知夢と、本質が正反対」
ということを思うと、
「両極端で対になる」
というものとして、
「鏡のようなもの」
を想像するのであった。
「鏡というのは実に不思議なものである」
ということで、こちらも、考えることとして二つあった。
一つは、
「左右は反転するのに、なぜ、上下では反転しないのか?」
ということである。
確かに、左右であれば、文字も映った姿にしても、
「左右では反対に見える」
というものだ。
しかし、
「上下では反転しない」
ということで、考えられることとして、、
「鏡というのは、鏡の向こうの世界がないとして、その先に自分が写っているとすれば、後ろ向きの自分というものが見えるに違いない」
ということである。
それが、正対するということで、
「左右が反対になるのは当たり前のことで、逆に、上下が反転しない方がおかしくはない」
といえるのだ。
つまり、
「左右が反転するということを当たり前だ」「
と考えているから、
「左右が反転するのに、上下が反転しないのがおかしい」
ということで、焦点が、
「上下が反転しない」
ということになることで、ズレてくるといってもいいだろう。
それだけ、
「鏡というのは、左右が反転するものだ」
という、本来であれば不思議に感じることが、特徴ということでとらわれてしまうことから、
「上下が反転しない」
という当たり前のことが、逆に、
「なぜなんだ?」
ということになるのだ。
また、鏡で不思議に感じることとして、
「合わせ鏡」
というものがある。
これは、
「自分を中心において、自分の左右か前後に、それぞれ鏡を置いた場合に、その鏡には、無限に、自分が映し出される」
というものである。
つまりは、
「絶対にゼロにはならない」
ということであり、それが、
「無限というものを証明している」
といってもいいだろう。
それは、数学の除算の関係に似ている。
「整数から整数を割って、それをどんどん続けていっても、絶対に、ゼロにもマイナスにもならない」
ということだからである。
つまり、
「割ることは無限にできる」
ということであり、その証明として、
「決してゼロにも、マイナスにもならない」
ということである。
もっとも、
「マイナスという概念を、無限と組み合わせるということができるのか?」
ということであるが、あくまでも、
「存在するもの」
というのは、
「可視」
ということであり、
「ゼロでなければ、見ることはできる」
という発想であった。
そういう意味で、鏡というのは、
「無限」
であり、
「限りなくゼロに近いもの」
ということが対になっているといってもいいだろう。
実際に、見る予知夢というのは、お互いに本質と正反対ということには、
「何か意味がある」
と考えてしまうのであった。
そんな予知夢であるが、二人がざっくばらんに話をしたその夜、桜木は、自分にとって、
「少し怖い夢」
というのを見た。
その夢というのは、
「奥さんである頼子が、自分の知らない男とホテルに入る」
という夢であった。
ただ、実際には、
「奥さんが、寸でのところで我に返ったかのように、男の手を振り払って、その場から立ち去る」
ということであった。
最終的には、
「事なきを得た」
ということである。
つまりは、
「楽天的なるが故の夢」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「俺らしい夢」
とも考えられるが、本人とすれば、何とも釈然としない夢であった。
「夢見が悪い」
ということで、朝から鬱積したものが残ったといってもいいだろう。
「ただ、今回の夢をどう感じるか?」
ということで、
「楽天的な夢だ」
ということで、
「予知夢となる」
と思うのか、それとも、
「いくら最後は我に返ったとはいえ、前半はとても、楽天的には感じることのできない夢ということで、
「これは予知夢ではない」
ということになるのかということであった。
ただ、
「予知夢ではない」
としても、実際に、頼子が他の誰かと、このような行為に陥らないとは限らない。
これは、
「予知夢だ」
ということを^前提に考えれば、最後には、堂々巡りを繰り返すということで、まるで、
「いたちごっこに陥る」
ということになるのではないかと感じたのだ。
桜木の懸念とは裏腹に、そんなこととはまったく知らない頼子の方は、前の日の予知夢で、実は似たような夢を見ていた。
それは、
「誰かの手を引かれて、ホテルに入ろうとしている」
という場面であった。
相手が誰なのか分からないのだが、自分では、拒否しているつもりなのに、手に力が入らない。
振り払っているつもりなのに、次第に、引っ張られていく手に、どうにもならない自分を感じていた。
手のひらには、ぐっしょりと汗をかいていた。
「こんなに手のひらに汗をかくなど今までにはありえない」
と思っている。
ということは、自分では、夢を見ているという意識がその時にはなかったのだ。
そもそも、夢であれば、
「悪夢だ」
ということを感じるはずなので、
「これは予知夢ではないか?」
と感じ、別の意味での恐怖心が浮かんでくる。
普段であれば、その恐怖心が浮かんできたところで、夢から覚めるということだったのだ。
だから、
作品名:予知夢を見るということ 作家名:森本晃次



