予知夢を見るということ
「誤解の場合の方が、正しい解釈にたどりつくまでに、手間と時間が掛かる」
ということになるだろう。
それを考えると、
「自分が、どれだけ誤解していることがあるか?」
と思えば、怖くなることもある。
それが、
「自分一人で解決できること」
ということであれば、まだマシだといえるか、
「誰か他の人の介在が必要「
ということであれば、
「誤解だけではなく、そこに勘違いというものが孕むことで、交わることのない平行線というものを描いてしまうのではないか?」
ということであった。
もっといえば、
「石ころと鏡」
の発想のように、
「誤解なのか、それとも、勘違いなのか?」
のどちらなのか分からないということから、
「予知夢」
というものと、自分の性格である、
「本質」
というものが、
「どのように関係してくるか?」
といえるのではないだろうか?
奥さんが、見た予知夢というのは、実際に起こったことであり、旦那はそれを目撃するということになるのだが、実際に旦那も、その時、女を連れていた。
奥さんとすれば、
「自分は必死に断っているのに、旦那が女連れというのは、どういうことなのか?」
というのである。
大団円
桜木は、どんな言い訳をしていいのか思いつかない。そんな時、
「確か、この人、以前宗教団体に所属していた」
ということではなかったか。
つまり、
「奥さんが宗教団体というものを想像した時、以前、彼女が、宗教団体というものを非難していたのを思い出した」
ということであった。
その時は、
「旦那が宗教団体に昔入っていた」
ということを知らなかったので、それを知ってからというもの、
「もう、脱退したのだから、今さら言っても仕方がない」
ということは分かっていたはずだ。
前の頼子であれば、ネガティブな発想をするということから、
「絶対に許さない」
ということになるに違いない。
しかし、今はその本質が、
「楽天的な性格」
ということで、
「今なら大丈夫だ」
と考えるだろう。
しかし、それも、以前の自分が、
「楽天的な性格だった」
ということからいえることで、今のような桜木であれば、
「楽天的な性格になりきれない」
ということから、考えかたが、楽天的に至らない。
そのため、
「妻の自主性に任せるしかない」
ということであるが、妻は、連れていた女のことをどう思うだろう。
彼女は、あくまで、
「勘違いをしている」
ということであれば、まだいいのだが、これが誤解ということであれば、
「その誤解を解かなければならない」
実際に、状況から考えると、
「誤解であろうが、勘違いであろうが、何を言っても言い訳でしかない」
ということになる。
桜木は、実は、彼女が連れていた男を知っていた。だから、
「その場で飛びだすことに躊躇した」
ということであった。
もし、飛び出していれば、相手尾男は殴られていたことだろう。桜木は、そのイメージを抱くことができたのだ。
しかも、手に殴った時の感触が残っていたのだ。殴ってしまえば、終わりだということを分かっていた。
その男は、宗教団体の男であり、その男が現れるということは、以前から感じていた。しかし、
「まさか、妻の前に現れるとは」
ということだったのだ。
しかも、その男にはいい思い出はなかった。
というのは、宗教団体において、初恋の女の子がいたのだが、彼女を、
「奪いとられた」
という印象があったからだ。
それがあったことで、実際には、
「恋愛なんかしない」
と思うようになった。
その頃は、まだ小学生の頃で、女性に興味を持つ前ということで、
「初恋の相手に対して、自分がどうして好きになったのか?」
ということが分からないのであった。
その頃から、
「予知夢」
というのを見るようになり、その予知夢というのは、最初の頃は、その女の子ばかりがいつも出てきていたのだった。
「意識している証拠なんだろうな」
ということは分かっていた。
だから、彼女に対して、こちらから、
「好きだ」
というような素振りを見せていたのだが、実際には、
「その途中で、あの男が邪魔をしていた」
ということで、いつも、最後まで見ることができないのは、その男が現れるからだ」
ということで、
「予知夢というのを見ながら、最後まで見ることができない」
ということは、
「あの男によるトラウマだ」
と感じていたのだ。
逆に、そのトラウマを払拭するには、
「この男が夢に出てきても、とらわれないようにしないといけねい」
ということを分かっていながら、
「逃げという感覚」
から、
「その男のトラウマを払拭するより、夢に見ないようにすればいい」
ということになるであろう。
だから、その、
「トラウマ」
と、
「逃げ」
という感覚の違いというのは、
「勘違いというものが原因なのか?」
それとも、
「誤解というものが理由なのか?」
ということである。
勘違いであれば、自分で、
「間違っている」
ということが分かっていて、それを払拭するという方法も、分かるというものだ。
しかし、
「誤解:
ということであれば、もう一段階いることになり、それが、
「路傍の石」
という感覚につながっているということになるだろう。
二人は、
「そのどちらかが、勘違いということであり、どちらかが、誤解」
ということであれば、それぞれに、理屈が分かることで、そもそも、正反対の考え方ということから、
「解決するにも、相乗効果をもたらすことができる」
ということになる。
しかし、
「どちらも、誤解であったり、勘違い」
ということであれば、そこに解釈がうまくいくというのは難しいだろう。
磁石の、同極というものは、
「反発しあう」
ということで、それこそ、
「絶えず同じ力」
ということであれば、そこにあるのは、
「交わることのない平行線」
ということだ。
さらに、それは、
「無限」
ということを表してるのであり、
「限りなくゼロに近い」
という発想になることだろう。
予知夢を見るというのは、
「まったく違った性質の夢を見る」
ということであっても、その結果は、
「交わることのない平行線」
ということであり、
「限りなくゼロに近い」
ということになる。
だから、
「相性が合う合わない」
というのは問題ではない。
信じあうために、
「相手が反面教師だ」
という発想からの、
「鏡の上下反転」
であったり、
「合わせ鏡」
だったりするのだ。
これも、穴居億は、
「限りなくゼロに近い」
という、
「無限」
というものになるということであった。
「予知夢を見る」
というもは、
「勘違いなのか?」
それとも、
「誤解なのか?」
ということを問われることになる時に、見るものということではないだろうか?
( 完 )
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作品名:予知夢を見るということ 作家名:森本晃次



