過去と未来の人類
ということで、想像もつかなかったことに対して、
「タイムマシン研究所の連中が、最初に、捻じれの発想を抱いた時の違和感」
というものが、
「目からうろこ」
ということで、出てきた発想であることから、
「最初の結界」
というものをぶち破ったのだ。
実際に。
「ロボット開発研究」
という方では、最初の結界すらぶち破っていない。
つまりは、
「最初の結界をぶち破った状態のタイムマシン研究」
というものと、
「まだ結界を一度もぶち破ったことのないロボット研究」
というものとでは、
「研究においては、一歩も二歩も遅れている」
という状態だったのだ。
だから、お互いにすり寄るということができなかったのはそのためで、実際に、どちらも平等に見ることができる人がいれば、それぞれのわだかまりを、もう少し早く解消でくたことであろう。
「それぞれの研究には、それぞれ相手の研究を必ずどこかで使うことになる」
というのが、今時点においての、
「ロボット開発」
「タイムマシン開発」
というものの発想であった。
だから、まずは、
「タイムマシン研究」
というものの中で、
「実験台」
ということで、考えられていたロボットというものを、
「いずれは、ロボット開発研究所に頼みにいく」
ということになるのは分かっていた。
しかし、先にタイムマシンができてしまったら、その実験をいきなり人間で行うことはできないということで、少なくとも、
「操縦ができる」
という、
「人間と同等か、それ以上の知能を持ったもので、しかも、人間に従順でなければいけない」
というと、それこそ、
「ロボットの存在意義」
というものにつながるということだ。
それこそ、
「ロボット研究室」
でのロボットの存在意義そのものだということであった。
実際に、
「30年だけ過去と未来にいける」
という初号機といえるタイムマシンの実験は、最終的に、
「ロボット研究所」
で開発されたロボットにゆだねられることになった。
このロボットは、
「タイムマシンの実験台」
という、限られた範囲で特化した性能でいいというロボットなので、
「次の瞬間の、無限の可能性」
というものを考える必要はない。
「予期せぬことが起これば、その場で自爆をする」
という機能にしていたのだ。
そもそも、
「ロボットが自爆をしなければいけない」
というほどの結果となるタイムマシンでは、
「使い物にならない」
ということになるだろう。
それが、
「タイムマシンというもの」
ということであり、
「そもそもが捻じれている」
ということで、
「タイムマシンこそ、いくつかのパターンを考える必要がある」
ということになるのではないだろうか?
「ここまでくれば、ロボット開発というものにも、光明が差してきた」
ということであった。
今回のタイムマシンというのは、
「一つのことに特化した試験的なタイムマシン」
ということであった。
つまりは、
「段階をおいて製作しないと、一気に実験もできない」
ということで、タイムマシンのような研究には、特に、
「大量生産」
のような発想はなかったのだ。
そこが、
「ロボット開発」
というものとの最大の違いなのかも知れない。
ロボットは、一つ開発して、その実験がうまくいけば、
「一気に大量生産に入る」
ということで、だからこそ、
「最初の実験」
というものが大切だということである。
「間違っていることを正しい」
として突っ走ってしまうと、
「もう元には戻れない」
ということだ。
つまりは、
「フランケンシュタイン症候群」
というものが実際に起こってくるわけで、考えかたとしては、
「ロボット開発というものに、フランケンシュタイン症候群は、切っても切り離せない」
ということになり、
「誰でもが想像できることであるが、想像しなければ、その時点で、致命的なことになってしまう」
ということになるのであった。
令和12年からちょうど、30年前というと、時代的には、
「世紀末」
というものから、
「新世紀」
と呼ばれる時代であった。
この時代には、
「1000年に一度」
ということ以上に、大きな問題が二つあった。
そのうちの一つ、これは問題といういうよりも、
「都市伝説」
と呼ばれるもので、実際に数百年も前から言われてきたことであった。
ただ、その時代の人たちからすれば、
「どうせ、自分たちの世代は死に絶えた後という、
「果てしない未来のお話」
という、それこそ、
「まるで他人事」
ということだったに違いない。
というのは、
「中世の時代の、一人の預言者によるもの」
というもので、いわゆる、
「ノストラダムスの大予言」
と呼ばれるものであった。
これは、
「1999年の7月に、恐怖の大王が降ってくる」
という予言だと言われていた。
それを、
「世紀末という不安を感じさせる年代に煽られる形で、都市伝説として語り継がれたもの」
ということであった。
実際に、
「1990年代」
というものに入り、それらの大予言に関係した本がたくさん出たことで、いやがうえにも、夜のか何、
「大予言の信憑性」
ということをあたかも証明するような本がたくさん出ていたのだ。
中には、
「そのほとんどを読んだ」
という人もいあるだろう。
しかし、たくさんの本が出れば出るほど、その内容は類似したものであり、中には、
「もう見飽きた」
という内容の話を、
「これでもか」
と載せることで、却って、
「うさん臭い」
と思う人もいたことだろう。
ただ、数冊くらいでは、
「ありえることだ」
ということがあたかも、信憑性を高める形で描かれているのだから、信じる人がたくさん出ても当たり前といってもいい。
まずは、歴史的に、
「預言書」
としての信憑性を、歴史上の事実によって立証し、さらに、
「今現状の世界情勢」
というものを、考えられる範囲で描く。
つまりは、
「社会情勢」
によって、戦争が起こったりすること。
「自然現象」
などから、前述の、
「地球崩壊」
というものを預言書になぞらえて描くということ。
さらには。自分たちの想像上でしかない、
「宇宙人の飛来:
などという、過去の文化遺産を宇宙人で証明することによる、
「他の星からの侵略」
などというものまでが、信憑性ありということで、読まれていたのだ。
中には、宗教に嵌っている人などは、
「どうせ死ぬのだから、死んでから救われるため」
ということで、宗教団体の口車に乗って、
「全財産を寄付する」
ということを行っている人も結構いた。
実際に、地球滅亡しなかったわけなので、世の中の大半の人が、
「よかった」
という中で、滅亡しないということから、
「当てが外れてしまった」
ということで、
「これから一体どうやって生きていけばいいのか?」
ということになるであろう。
そのあたりが、社会問題として残ったといってもいいのではないだろうか?
そして、もう一つの、
「世紀末に起こるかも知れない」



