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SF風大東亜共栄圏

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「他にも同じくらいに怪しい容疑者がいて。一人に絞り切れない」
 ということがあるからなのかも知れない。
 その被害者というのは、
「それだけたくさんの人から恨みを買っていた」
 ということで、本来であれば、
「殺されても仕方がない」
 という人だったのかも知れない。
 こちらの時代には、
「史実」
 の時代とは違い、法律が、若干違っていた。
 刑法的には大きく二つであるが、一つは、
「殺人の時効というものが、当時は史実では15年であったが、パラレルワールドの世界では、10年」
 ということである。
 史実世界では、今ではその時効も、殺人などの凶悪犯であれば、撤廃された」
 ということであるが。こちらの世界では、
「10年が15年になった」
 ということであった。
 つまりは、
「時効が短かった」
 ということである。
 しかし、
「5年という期間は結構長い」
 といえるだろうが、最初から、
「10年と15年」
 という形で決まっていて、実際に逃亡期間ということで味わったわけではなければ、それぞれの時代における時効の長さは、比較にはならないということになるのではないだろうか?
 それでも、
「寿命の中の、10年と15年では、その後の人生を考えると、犯人にとっても、警察にとっても、意識以外のところで、その違いを感じているのかも知れない」
 といえるだろう。
 そういう意味で、
「時効」
 というものの期間の違いというよりも、もう少しシビアなところで、決定的に違う発想があった。
 というのは、
「史実においては存在している」
 といわれる、
「一事不再理」
 というものが、パラレルワールドの世界では、存在しなかったからだ。
 これは、
「一度、一つの犯罪事案が裁判に持ち込まれ、その刑罰が確定したのであれば、再度その案件で、裁かれることはない」
 ということである。
 判決が無罪であったとしても、刑に服したとしても、新たな証拠が見つかったからといって、再審理を行うことを許さないということである。
 しかし、
「パラレルワールド」
 では、それをありだとした。
 その理由としては、
「史実に比べて、パラレルワールドにおいては、かなり多い冤罪があった」
 ということで、元々、パラレルワールドの世界でも、最初は、
「一事不再理の原則」
 というものを貫いていたが、
「冤罪」
 というものに重きを得たことによって、一事不再理の原則に対しての問題がクローズアップされたことで、一事不再理というものが撤廃されたのだった。
 ただし、その場合の再審理や再捜査に対しては、
「ずるずる行っては、時間の無駄」
 ということも言われるようになり、
「時効というものが、史実に比べて短い」
 ということになるのだ。
 確かに、
「パラレルワールド」
 と、
「史実」
 という世界には、何ら共通点というものはなく、実際に、この二つの世界の存在を知っている人は、ごく一部ということだ。
 そもそも、パラレルワールドというものは、無数の可能性によって存在しているので、
「パラレルワールド」
 と呼んでいるこの世界にいる人は、
「この世界のみが現実であり、史実なのだ」
 と思っているに違いない。
 ただ、それぞれの時代は、無意識ながらも、それぞれの時代のいいところ悪いところの辻褄を合わせながら、存在している世界だといえるだろう。
 だから、
「それぞれ存在する世界」
 というのは、
「どれも、真実であり、ただ、パラレルワールドというものの存在によって、史実ではない」
 といえるだろう。
 つまり、
「史実」
 というのは、
「事実」
 というものと同意語だといえるのではないだろうか。
 史実の世界では、
「真実はひとつ」
 といわれているようだが、それは、ヒーローもののドラマであったり、アニマなどで言われていることであった。
 それは、
「真実というものを、事実と混同して考えるからではないだろうか?」
 ということなのだが、
「事実というのは、実際に起こったこと」
 ということであり、真実とは違う。
 真実というのは、
「事実という結果が出るために、その過程において、時系列的に考えられることを真実」
 と呼んだりするのが、
「事実に対しての真実の考えかた」
 といえるだろう。
 しかし、
「真実というものは、事実というものが前提でばかり考えるものではない」
 といえるのではないだろうか。
 その時々の事情によって、結果が変わるように、出てきた結果は一つしかないが、真実は、その時々によって、あるいは、それぞれの人間の見方によって違ってくるといってもいいだろう。
 それを考えると、
「真実というのは、可能性というものの数だけ存在するもので、逆に事実は、その世界に、一つしかないものの代表」
 といえるだろう。
 だから、言い方を変えれば、
「真実というのは、無限の可能性を秘めたパラレルワールドすべてに存在する」
 というものであり、
「事実は、その中の史実の世界に、一つだけ存在するもの」
 ということで考えれば、
「言葉やニュアンスは似通っているが、実際には、違うものなのだ」
 といえるだろう。
 そもそも、似たような言葉が二つ存在するということは、
「どこかに違いを考えさせたいから、敢えて両方の存在を認めている」
 ということで考えたのであれば、
「事実というのは、史実と同意語であり、真実は、まったく別の、広義の意味と、狭義の意味が存在する」
 といってもいいだろう。
「真実は、それぞれの異なる世界に存在するという広義の考えかたと、人それぞれで違っているという狭義の考えかた」
 ということになるのだ。
 ただ、
「あくまでも、個人主義という考えかたのパラレルワールドが存在するとすれば、その世界においての真実は、その人にとって、一つしか存在しない」
 ということになるのであろう。
「真実と史実」
 という考えかたであるが、
 この考えかたがあるから、パラレルワールドの世界において
「一事不再理の撤廃」
 というのは、
「必然だった」
 といってもいいのかも知れない。
 この世界では、
「合理的」
 ということを一番に優先される。
 そもそも、戦前の世界においては、どうしても、
「精神論」
 であったり、
「日本は神の国」
 などということで、国民を洗脳し、誘導してきたということが、結局、
「日本国を亡国にまで追い込んだ」
 ということであった。
 ただ、それも、致し方ない歴史の事実ということで、考えられるべきであるが、その教訓を生かすという考えかたとして、
「すべてを合理的に考えることで、世の中を統制していく」
 という方針が固まったのだ。
 確かに、占領軍からの押し付けの民主主義という時代があったが、
「そんな民主主義というものが、史実とは違った」
 ということである。
 史実においては、あくまでも、
「社会主義」
 というものに対して、立地的に日本を、
「民主主義の防波堤」
 ということで、
「世界の社会主義化」
 というものに歯止めをかけるということになったが、この世界では、
「そこまで確立した東西冷戦」
作品名:SF風大東亜共栄圏 作家名:森本晃次