一感情全偶然
当然、結婚しないのだから、子供ができるわけもなく、
「少子高齢化」
というのが当たり前ということになるのだ。
そもそも、結婚しているという人であっても、
「子供を作らない」
という人が結構いる。
というのも、
「子供を作っても、共稼ぎなので、親が見てくれるという保証がなければ、保育園や託児所に預ける」
ということになる。
そうなると、
「託児所」
であっても、
「保育園」
出会っても、預かってもらうのにお金がかかるというわけで、共稼ぎをして、託児所の費用を払うことを考えると、
「とてもではないが、賄えない」
と思う人もいるだろう。
それだけではなく、実際に預けようと思っても、
「託児所が空いていない」
などという、
「待機児童」
と呼ばれるものが増えている状況で、
「共稼ぎもできない」
ということになる。
しかも、昔のように、
「子供を一人前に育てれば、子供が親の面倒を見てくれる」
などということはありえない。
たぶん、今の子供が成長した頃には、
「年金制度」
というものは崩壊していて、そうなると、
「若いうちに、自分で年金をためておく」
という時代が来る。
そうなると、
「子供がお金を貯める」
ということで、親の面倒どころか、
「子供にとって、これ以降の生活や、老後がまったく見えてこない」
ということで、
「親どころではない」
ということになる。
つまり、
「子供頼ることはできない」
ということだ。
そもそも、昭和の頃に定年を迎えた人は、一部には
「夫婦で世界一周」
などという、
「悠々自適な老後」
というものが待っているという時代だった。
しかし、それも、
「バブル崩壊」
とともに、社会というものが、まったく変わってしまったということで、
「人生に余裕などない」
という、
「世知辛い世の中になった」
といってもいいだろう。
しかし、人生というもの、必ずしも、
「悪いことばかりではない」
というもので、
「結果的に、最悪だった」
ということであっても、その過程において、
「少しはいいこともあった」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「思い出した記憶」
ということで、
「会社にいる事務員の女の子が気になっている」
ということであった。
その女の子というのは、自分が今までに付き合った女性というものの中で、
「一番好きだった相手」
の面影をしっかり残しているということであった。
初恋の思い出
顔もさることながら、
「絶えず笑顔を絶やさない」
という雰囲気なのに、
「いつも控えめ」
ということであり、決して目立ちはしないが、
「癒しを感じさせる女性」
ということは間違いないと思えるのだ。
そう、化粧をしているよりも、
「すっぴんが似合う」
という感じの女性であった。
それが、
「万人うけ」
というわけではないが、どこか、
「自分と同じ思いを抱いている」
という、いわゆる、
「ライバルが多い」
という感覚になるのであった。
今から思い出すと、自分が彼女を気になったのは、
「その控えめなところから、つきあっていくうちに、自分好みになっていくのではないか?」
という思いがあったといえるかも知れない。
そもそも、自分の好きな女性のタイプというのは、いわゆる、
「ストライクゾーンが広い」
といわれていた。
ハッキリといえば、
「自分を慕ってくれそうな女性であれば、少々顔や体形が好みでなくとも、十分にストライクゾーンだ」
ということであった。
ただ、これは、まわりから見ると、
「松島は、俺たちが敬遠したいと思うような女性が好みだ」
といわれてきた。
「他人、特に友達と、好きな女性が競合する」
ということになれば、
「自分から、身を引く」
ということをしていた。
だから、まわりからすれば、
「俺の好きになった女性を、松島も好きになるということはないだろう」
と思い込んでいたのだ。
これは、
「まわりの友達に気を遣っている」
というわけではなく、正直に、
「自分に自信がないからだ」
ということである。
「争っても絶対に負ける」
ということであれば、最初から争うと友達同士しこりができるし、それよりも何よりも、
「やっぱり俺だからダメなんだ」
ということを見せつけられるだけだということになるのだ。
それは、
「自分が女性にもてない」
ということを思い知らされることになるわけで、
「どうせダメなんだ」
と少しでも考えたら、
「結果がハッキリと出る前に、自分から諦めた方がいい」
と考えていた。
要するに、
「好きになったから好かれたい」
という感情ではなく、
「好かれたから好きになる」
という方が自分に合っていると思っていたのだろう。
その方が、時分らしいと思っていた。
「あまり攻める方ではない」
というタイプだと思っていただけに、
「女性に関しては、控えめに行けばいいんだ」
ということだったのだ。
そうなると、
「相手を自分が好きかどうか」
というのはあまり関係ない。
好きになったというのは、あくまでも結果論で、
「好かれたから好きになる」
という方が、自分を納得させると思っていた。
というのが、
「思春期に入った頃」
確かに、彼女がほしいという感情はあった。
しかし、
「その感情がどこから来るのか?」
ということを考えた時、
「彼女をつれて楽しそうにしている姿がうらやましい」
ということで、一種の嫉妬の感情というものが、全面に出ていたのだ。
だから、
「相手の女性がどうの」
というよりも、
「自分が女性をつれて歩いていることで、まわりの人にうらやましい」
と思わせたいという感情が大きかったのだ。
だからといって、簡単に彼女というものができるわけではない。
問題は、
「まわりに、彼女を連れているということを示したい」
ということであるので、相手に関しては、そこまでこだわっていなかった。
だが、まわりが、
「あんな自分の好みでもない女を連れている」
と思うわけで、
「決してうらやましくない」
と思うはずであることを、正直、
「失念していた」
といってもいいだろう。
だから、
「その女性を本当に自分が好きかどうか?」
ということは、優先順位の中で、それほど高くはないといってもいいだろう。
本来であれば、
「恋愛関係」
ということであれば、
「好きになったので好かれたい」
ということから関係が始まるというものであろう。
もちろん、最初原、
「好かれたから好きになる」
ということも十分にあるわけなのだが、それが基本の考えかたというのは、珍しいケースといってもいいかも知れない。
だから、若い頃の松島は、
「ただ、彼女というものがほしい」
ということ、
「その彼女と一緒にいるところを周りに見せて、優越感に浸りたい」
という思いが、
「彼女を作る」
という意味での優先順位だといって過言ではない。
今から思えば、



