小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

一感情全偶然

INDEX|4ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

 ということをうまく利用して、部署内で立ち回っていたのだ。
「イソップ寓話」
 というものの中に、
「卑怯なコウモリ」
 という話がある。
「鳥と獣が戦争をしていて、その場に立ち入ってしまったコウモリは、鳥に対しては、自分は羽があるから鳥だといい、獣に対しては、体毛があるから、獣だといって、うまく立ち回っていた」
 という話である。
 しかし、戦争が終わって、鳥と獣が和解すれば、その時にコウモリのことが問題となり。コウモリを卑怯だということで、村八分とし、結局コウモリは、他のどの生物の前にも出ないように。
「洞窟で暮らすようになり、夜行性で、行動は夜しかしなくなった」
 ということであった。
 しかし、イソップ寓話においては、
「卑怯なコウモリ」
 といわれているが、実際には、コウモリの行動は、
「生き残るために必死な行動」
 ということで、
「戦略」
 ということで、
「その方法は正しい」
 ということになるという考えかたもある。
 そもそも、
「寓話」
 であったり、
「おとぎ話」
 などのたぐいは、
「考え方を変えれば、どちらとも取れる」
 というものもあり、特に、
「浦島太郎」
 などの話のように、
「実際に、學校などで習うお話は、途中で止まっていて。本当は、続編というものがあるのだ」
 というのが多かったりする。
 例えば浦島太郎という話であれば、
「カメを助けて竜宮城に行く」
 ということで、
「いいことをした」
 というはずの浦島太郎が、最後には、
「玉手箱を開けて、おじいさんになる」
 というのが、おかしいというのだ。
 つまり、
「いいことをしたのに、最後はひどい目に遭うというのは、おとぎ話の精神に反する」
 といってもいいだろう。
 そもそもは、
「2,3日しか滞在していないのに、実は地表では、数百年が経っていた」
 という竜宮城に、
「お礼」
 ということで連れていくことがおかしなことだといえるのではないだろうか。
 この話は、実は
「乙姫様のわがまま」
 ということで、最後にはハッピーエンドになるのだが、それを考えると、
「竜宮城に連れてくる」
 というのも、最初から、
「乙姫様のわがままだった」
 ということではないだろうか?
 つまり、
「乙姫様が、浦島太郎という男に惚れて、自分のものにしたい」
 ということからすべてをたくらんだと考えると、
「理屈には合う」
 ということである。
 ただ、
「どうして、陸に上がって結ばれることになるのか?」
 ということであるが、それこそ、
「竜宮城の掟か何かがあって。絶対に地上の人間と、海底人、つまりは、竜宮城の住民とでは一緒になれない」
 ということであれば、
「何かの策を弄するしかない」
 ということで、
「こんな面倒くさいことをした」
 といってもいいかも知れない。
 ただ、これが、神話の話で、
「神というものが絡んでいる」
 という場合であれば、
「人間というものは、あくまでも、神が作ったものであり、神によって支配される」
 と考えると、
「竜宮城の人たちは神ではないか?」
 ともいえるわけで、
「ギリシャ神話」
 というものにおける
「オリンポスの神々」
 というのは、神でありながら、
「これ以上、人間臭いものはない」
 というほど、
「嫉妬や妬みの塊だ」
 といっておいいだろう。
 それを考えると、
「竜宮城の乙姫様」
 という神が、
「嫉妬と妬みの塊だった」
 といっても無理もないということではないだろうか。
 そういう意味で、
「浦島太郎という話も、捉えよう」
 あるいは、
「どこで区切るか?」
 ということで、
「いい話にも悪い話にもなる」
 といってもいいだろう。
 両面を持った話ということで、
「卑怯なコウモリ」
 というのも、見方によっては、
「生き残るための、戦略家」
 ということで、
「手本とされる」
 といってもいいかも知れない。
 ただ、この考えかたが、それこそ、古代から受け継がれているものだと考えると、
「全世界を駆け巡る」
 ということで、
「ヨーロッパと、アジアから見ても極東といわれる日本で、似たような話がある」
 というのも、面白いことである、
 そんな、
「裏表」
 というのは、
「メリットやデメリット」
 ということになるということから、
「実は、デザインにも、裏表がある」
 と考えるのであった。
 それによって、いろいろ錯覚というものが見えて、
「錯視」
 というものがデザインを作るといってもいいだろう。
 会社に入って、自分の中でどこか違和感があった。
「忘れてしまった何かを思い出した」
 といってもいいかも知れないのだが、それが、何なのか分からなかったが、その違和感は、
「決して悪いものではない」
 といえるものではないだろうか。
「心地よさ」
 と、
「なつかしさ」
 というものが入り混じったかのような感覚があり、
「心のどこかに、余裕のものがある」
 ということになる。
 きっと、この余裕というものが、なつかしさというものを運んでくると感じさせるのであろう。
 それは、結果として、
「若い時のことを思い出した」
 ということである。
 実際には、その後の人生を知っているのだから、若い時の感覚というものが、よみがえってきても、自分が実際に年を取ったという思いから、どうしても、慎重になり、年齢が却って災いすることから、
「20代の感覚は戻っているのに、戻り切れない」
 という感覚になり、それが、
「慎重な思いを抱かせ、実際に若い頃のように、手放しで、喜べない」
 ということになるだろう。
 しかし、実際には、その後の人生を分かっているということで、その人生が、
「いい悪いにかかわらず」
 分かっているというだけで、どこか安心感というものがあるのだ。
 それが、
「気持ちの中の余裕」
 というものを感じさせるのであって、
 人生において、
「何度か感じるであろう心の余裕」
 というものを、40過ぎの中年と呼ばれる年齢になって、少し分かってきたような気がする。
「不惑の世代」
 ということで、40代というと、
「惑わない」
 といわれるが、今ではなかなかそうもいかない。
 昔であれば、
「寿命が70代」
 といわれていた時代ということであれば、
「人生の折り返し」
 ということであるが、今の時代の、
「少子高齢化」
 と呼ばれる時代であれば、決して、
「人生の折り返し」
 ということではない。それこそ、
「まだまだ、これから」
 ということになるだろう。
 何しろ今は、
「人生、100歳時代」
 と呼ばれ、しかも、政府などのいっていることは、
「年金制度は崩壊するから、死ぬまで働け」
 という、
「とんでもない世の中になってきた」
 ともいえるだろう。
 ただ、実際に、
「まだまだ若い」
 ということは間違いのないことで、今の時代でも、40代というと、
「一番の働き盛りで、油が乗っている」
 とも言われる年代といえるだろう。
 しかも、昭和の頃とかなりちがった人生が、今の時代ではある。
 なんといっても、
「結婚しない人が増えた」
 ということが、その例ではないだろうか。
作品名:一感情全偶然 作家名:森本晃次