いたちごっこの光と影
「一つがバレれば、その瞬間、次のトリックが発動され、それがまた看破されれば、次のトリック」
とでもいうように、
「人形を開けると、中から一回り小さな人形が出てくる。さらに開けると」
というような、いわゆる、
「マトリョシカ人形」
のようなトリックというものが、張り巡らされて理宇ということであった。
それを考えると、
「マトリョシカ人形」
であったり、
「合わせ鏡」
というようなものは、最初から、
「トリックのために作られたもの」
といってもいいかも知れない。
そして、なんといっても、
「どんどん小さくなっていく」
ということから考えられることとして、
「限りなくゼロに近いもの」
というのが、
「終点ではないか?」
ということである。
しかし、
「絶対にゼロになる」
ということはないのだ。
なぜなら、数学において、整数を整数でどんなに割り続けても、限りなく小さなものにはなるが、
「ゼロであったり、マイナスには決してならない」
ということであった。
つまりは、
「ゼロにならない」
ということで、それが、
「無限である」
ということが証明されたということと同じだからである。
実際に、今考えられている、
「ミステリーにおけるトリック」
というのは、数種類あるが、それは、
「探偵小説黎明期」
と言われた時代においても、すでに、出尽くされたものだと言われている。
だからこそ、あとは、
「バリエーションの問題」
ということで、
「謎解き」
というものをストーリー性でカバーすることで、
「トリックをいかに生かすか?」
ということになる。
つまりは、
「何重にも張り巡らされたトリック」
というものをいかに使うかということだ。
今回の犯罪がそれにあたるとは限らない。
しかし、
「犯罪というものは、策を弄すれば弄するほど、暴かれやすいということもある」
というものだ。
つまり、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
ということで、
「完全犯罪を考えるがゆえに、簡単なところに抜け穴ができてしまう場合が多く、それを看破されれば、事件は容易に解決する」
ということもあるだろう。
そういう意味で、
「トリックを駆使した犯罪」
というものが、意外とスピード解決だったということになるのも、ミステリー小説などではよくあることだ。
実際に事件でも、
「一つのことがきっかけで、犯罪が露呈する」
ということもある。
つまりは、
「犯罪が露呈しない」
ということが最大のトリックであり、
「死体が発見された時点で、犯人が分かってしまった」
ということもあるだろう。
しかし、犯人としては、
「絶対に発見されない」
ということに、全神経を集中し、そのことを信じて疑わないということであれば、
「見つかった時点で、俺の負けだ」
と観念することだろう。
表裏のその先
「策を弄する」
というのはそういうことで、意外と、策を練って犯行を犯す人間は、潔いのかも知れない。
もっといえば、
「人を殺したい」
ということが目的ではなく、
「策を弄した殺人事件で、警察に挑戦する」
ということを目的にする人もいるだろう。
だから、犯人が捕まった時、刑事が逮捕の時に、
「どうして殺したりしたんだ?」
と聞くと、普通であれば、
「相手に対してお恨み」
などというものを口走るということになるのだろうが、その時の犯人は、
「だって、いい殺し方、思いついたんだもん」
というのだった。
その表情は、きっと、刑事の経験上からも、
「今までに見たこともないような不気味な表情だったのではないか?」
ということであり、本来であれば、警察に看破され、逮捕されることになったのだから、
「犯人の負け」
ということなのだろうが、犯罪計画を披露した時、刑事が呆れたような表情を、
「俺の計画にビックリしているんだ」
と感じたことで、最後はきっと、勝ち誇った気持ちになったということになるのではないだろうか?
その時の刑事の表情が、
「犯罪計画の壮大さに舌を巻いていた」
というわけではなく、単純に、
「こいつ本当に俺たちと同じ人間なのか?」
ということで、
「軽蔑と、汚物を見るような感覚」
ということになったのかも知れない。
そう思うと、
「これほど、警察と犯人というものが、違うものを見ている:
ということも実際にはあるのではないか?
ということであった。
警察というものが、事件解決を、
「被害者のため」
であったり、
「社会の治安を守るため」
さらには、
「自分が事件を解決するんだ」
という思いであるのだろうが、犯人側は、
「自己主張」
というものから犯罪を犯すということである。
もちろん、
「直接的な動機」
というのがあるのは当たり前のことであり、
「犯罪において、自分の知能をあからさまにしたい」
ということで、
「一種の芸術作品」
として作り上げることを目標にする人もいる。
そのようなものを、
「耽美主義」
というもので表現できる。
それは、
「モラルや倫理というものよりも、美というものを最優先させる考え方」
ということである。
つまりは、
「モラルや倫理というものが、本来であれば、一番に優先されるべきもの」
というのが、今の社会の考え方であるが、その最優先事項よりも、もっと大切なものということで、他のものを求めるというのは、最後には、
「広義の意味での耽美主義」
ということになるだろう。
これが、芸術の世界ということであれば、称賛されるものだといってもいいのかも知れないが、これが、
「犯罪」
という、
「悪の代表」
といわれるものであれば、そう簡単に許されるものではない。
ただ、
「美」
というものを
「犯罪」
というものを、紙一重の考え方だと思っている人も少なくはない。
それを考えると、
「正義」
というものがあり、それに対象となる、
「悪」
というものは、そのほとんどが、
「善」
というものとの、表裏の関係にあるといってもいいのではないだろうか?
世の中は、
「善と悪との背中合わせ」
といわれているが、そもそも、何か一つのことに関して、
「すべてもものに裏表がある」
ということであれば、
「善悪というものは、その一つ一つの中にも、裏表がある」
ということで、
「犯罪」
というものを、表裏によって、
「毒にも薬にもなる」
ということなのかも知れない。
そう思うと、この世に存在しているものは、必ず、
「毒にも薬にもなるもの」
ということで、それをいかに、
「薬として使うか?」
ということが、
「善だということだ」
ということになるのだろう。
ただ、世の中には、
「毒にも薬にもならないもの」
というものもある。
それこそが、
「路傍の石」
という考え方ではないだろうか?
「その場にあるのに、誰に意識されることもなく、ただその場に存在している」
というだけのものである。
しかし、それも利用できないわけではなく、実際には、
作品名:いたちごっこの光と影 作家名:森本晃次



