いたちごっこの光と影
といわれるものがたくさんあるということであろう。
夏というと、どうしても、
「スタミナ継続」
ということで、スタミナが出るということで、食べやすいということを無視した状態で食べるものということであったり、
「そうめんや冷や麦」
などの、
「あたかも、清涼目的」
という食事のどちらかになる。
そもそも、夏バテということで、食欲などもない。
へたをすれば、
「何を食べてもおいしくない」
あるいは、
「何を食べても味がしない」
ということになると、
「別の病気」
というのを疑ってみたくなるというものだ。
そして、秋というと、
「読書の秋」
である。
これこそ、精神的にも、頭の中も、余裕が満ち溢れた状態ということで、行うのが、読書という感覚であろう。
「読書」
というと、
「知識を得る」
ということで昔から受け継がれてきたものであった。
最近は、
「紙媒体がなくなってきた」
ということで、嘆かわしいといえるだろうが、何よりも、
「読めば知識になり、人生を導いてくれる」
ということから、
「ひねくれた考えを持つ人」
であったり、
「成績が悪い人」
からすれば、
「忌み嫌う」
という感覚になるのかも知れない。
だが、誰もが、
「図書館で本を読んでいる」
ということであったり、
「昔の日本家屋の園側で読書にいそしむ」
というのは、昔の、
「明治の文豪」
というものを思わせるところが、高貴な気持ちにさせるのであろう。
そんな秋めいてきた、ある日の深夜、
「そよ風が気持ちよく、住宅街に入ると、犬の遠吠えのようなものも聞こえる」
という、
「普段と変わらない秋の一夜」
ということであった。
すでに最終バスもいってしまい。乗っていた人も足早に家路をついていたのであるが、ここに一人の青年が、
「余裕のある秋の一夜」
というのを楽しむという、
「優雅な気持ちの中」
心地よさそうな鼻歌でも歌いながら、歩いていた。
その日は月がきれいだった。満月までにはまだまだであるが、夜を照らすには十分といえるくらいの威光を放っているかのようで、別に酒を飲んでいるわけではない、素面の状態であったが、
「ここ数年でも、ここまで気持ちのいい感覚はなかったな」
と思っていた。
こんな日は、
「鼻が利く」
というのがいつものことであった。
酒を飲んでいれば、鼻孔が通りやすくなるので、臭いに敏感ということであるが、この日は素面でも、それくらいの心地よさがあったということは、
「本当に、ここまでの心地よさは、実に久しぶりだ」
という気持ちだった。
だから、
「このまま足早に帰るのはもったいない」
と考えたのだ。
「まわりに注意を払って、いろいろ見てみたい」
という感覚でもなかった。
どちらかというと、
「ただ、気持ちに余裕を持ちたい」
ということで、
「気持ちに余裕が生まれると、自分で見たいと思う光景が勝手に向こうからやってくるのではないか?」
と感じたからだった。
しかし、その時感じた臭いは、
「一種異様なものだった」
ということである、
何やら鉄分を含んだものであり、さっきまで感じたことのなかったような、湿気が空気中から感じられた。
その二つは、
「ほぼ同時に感じられた」
といってもいい状態で、
「思わずその臭いの方にいざなわれた」
ということであった。
「あの時、臭いなど感じなければ」
と後になって後悔した。
しかし、感じてしまったものは仕方がないというもので、
「その臭いのする方に歩んでいくと。一瞬立ち止まるような気がした」
ということであり、それは、
「後ろから引っ張られる感覚だった」
ということから、
「後ろに誰もいるはずもない状態で。実際に誰もいなかった」
ということから、
「虫の知らせ」
というのは、本当にあるということになるのではないだろうか?
しかも、その臭いが
「香り高い」
というものであればいいのだが、臭いを嗅いだ瞬間、
「これは、ロクなものではない」
と直感したのだが、
「その感覚は間違っていない」
といってもいいだろう。
雨が降る時、その前兆を臭いで知るということがある。
「まるで、意思をかじったかのような臭い」
ということで、実際に石をかじったという覚えはないのだが、想像の中で、
「石をかじればこんな味がして、臭いが残る気がする」
と感じるのであった。
理屈的には、
「砂交じりの蒸気が雲を作り、それが雨となって降ってくるというのが、アメというものだ」
と考えれば、納得がいく。
しかし、その臭いを毎回感じているわけではない。きっと、臭いと符合する何かを感じた時、
「そろそろ雨が降ってくるのではないか?」
と感じさせるのだろう。
その感覚だって、
「精神的な感覚」
ということで、一定の機関、存続している精神状態との絡みによって、例えば梅雨時期のように、雨が頻繁に降る時は、
「毎回感じる」
と思っているかも知れないが、
「雨の降らない時期」
というのは、ただでさえ降る感覚が長いのだから、
「思い出すのが稀だ」
と考えるのかも知れない。
それを思えば、
「雨が降る時」
と、
「この鉄分を含んだ臭い」
というものの共通となるものは、
「空気中の湿気」
ではないだろうか。
湿気に関しては、鼻腔が感じるものではなく、
「肌が感じる」
というものだ。
だからこそ、
「湿気を感じる」
というのは、肌に気持ち悪さを感じさせ、子供の頃の記憶として、よく海に行った時、潮風に湿気を感じて、気持ち悪さから、いつも、海に出かけた次の火には、熱を出して寝込んだという記憶しかなかった。
子供の頃から、
「海は嫌い」
ということで、その原因が、最初の頃は、
「塩辛い感覚だ」
と思っていたが、成長するにしたがって、
「湿気が身体を鬱陶しく感じさせ、動けなくなるような効果をもたらす」
と感じるようになった。
だから、
「湿気というものは嫌いだ」
と思うようになったのであった。
臭いにつられて歩いていくと、そこには、廃工場のようなところがあった。
正門のところはさび付いていて、建物も、風の吹き抜けのようになっていた。
最初は、
「この錆が臭いの元なのはないだろうか?」
と思ったが、それも少し違う。
「始めて臭いはずなのに、どこか懐かしさのようなものがある」
という、まるで、
「デジャブ現象」
というものを感じさせたが、
「懐かしい」
といっても、以前から、
「また嗅ぎたい」
と感じていたものではなかった。
むしろ、
「二度と嫌だ」
と思うことであり、
「デジャブ現象」
というものを感じさせたのは、この、
「二度と嫌だ」
という感覚を最初に感じさせたからではないだろうか?
昼と夜の狭間
風は相変わらず吹いていた。そのあたりは、住宅街からは少し離れていたので、街灯もそれほど明るいものではなかったのだが、廃工場となっているわりに、なぜか奥の方で光を感じたのだ。
「誰かいるのかな?」
と思ったのは、その光のせいだった。
作品名:いたちごっこの光と影 作家名:森本晃次



