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いたちごっこの光と影

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「相変わらず」
 ということで、容赦なく照らしつけられていた。
「これ翻弄に涼しくなるのか?」
 というほど、秋や冬の訪れというのが、
「待ち遠しい」
 というよりも、
「本当にくるのか?」
 という疑念の方が大きいくらいで、
「これが当たり前なのではないか?」
 という思い込みがあっても、
「別に不思議はない」
 というほどであった。
 実際には、
「夏の暑さを絶対的なものとする」
 というものが、少しずつ減ってきているので、実際の気温よりも、比較的過ごしやすいと感じるのも、分かる気がする。
 というのは、
「夏の暑さを感じさせるもの」
 ということで、感じるのは、
「セミの声」
 ではないだろうか。
 もちろん、
「直射日光」
 であったり、
「湿度と気温のバランス」
 などが大きいだろうが、昔から、夏の暑さというと、
「セミの声」
 というのが当たり前のことであった。
 意味としては違うが
「静けさや岩にしみいるセミの声」
 という有名な句があるではないか?
 これは、
「岩にしみいるようなセミの声が静寂を誘う」
 というもので、
「静寂」
 というものを、
「無の境地として感じる」
 ということであるが、この、
「静けさ」
 というのは、逆に考えれば、
「暑苦しい中において、暑さをしのぐには、静かにしているのが一番いい」
 ということで、静けさを誘うセミの声と謳われているものは、少ない数で見ればということであり、これが大量に、
「耳をつんざく」
 というほどのものであれば、暑苦しさを通り越すといってもいいだろう。
 特に、最近の夏は。
「体温よりも高い暑さ」
 ということで、
「表にいれば、命が危険に晒される」
 というほどのものである。
 少しでも身体を動かせば、一気に熱中症というものに掛かってしまうということになるだろう。
 さすがに10月になれば、セミの声はほとんど聞こえなくなる。
 というのは、
「7月くらいに成虫になったセミは、8月終わりまでには、そのほとんどが死んでしまう」
 ということで、
「寿命の短さの代表」
 といわれているのが、セミだからである。
 だから、
「いくら暑さが残っていたとしても、セミの声が聞こえなくなっただけで、なんとなく、過ごしやすい」
 と感じることであろう。
 そもそも、セミの声というものは、暑さのせいか、
「なるべく意識したくない」
 と感じるのが、人間の本能というものではないだろうか?
 だから、セミの声が聞こえると、反射的に、身体にだるさが出てきて、暑さに対して、本能的に、
「身体を動かしてはいけない」
 と悟らせるためのものをいうことになる。
 意識してしまうと、必要以上に苦しみを感じることになることから、まるで、
「路傍の石」
 のように、
「意識しなければ、気になることはない」
 という、
「悟りの境地」
 といえる、本能というものが身についているのかも知れない。
 だから。
「セミの声が聞こえなくなっただけで、秋が近づいた」
 と昔の人は思っていただろうが、今はそうもいかない・
「セミの声を意識しているだけの余裕が、今の夏にはない」
 といってもいいだろう。
 だからなのか、
「日が暮れてくると、すっかり秋めいてきた」
 と感じられるようになってきた。
 確かに、日中は、まだ昭和の時代の真夏といわれるくらいの気温ではあるが、なんといっても、
「真夏のあの対応を超すような猛暑」
 というのを潜り抜けてきたのだから、さすがに、10月にもなると、
「同じ暑さでも、種類が違う」
 ということになる。
 その一例として、
「セミの声の有無」
 というのがあるのであろう。
 そして、日が暮れてから、夜に入って、
「日付が変わるか?」
 といわれるような深夜であれば、今度は、
「秋の虫」
 の声が聞こえてくるということだ。
 風が吹いていれば、かなり、すがすがしいともいえる気候ということで、
「涼しさというのにも慣れてきたかな?」
 という気持ちにさせてくると。
「何かを考える余裕などない」
 というほど厳しかった夏という季節にくらべ、
「いくらでも、何でもできるという気持ちにさせてくれるのが秋だ」
 ということだ。
 秋というのはいろいろ言われている。
「読書の秋」
「食欲の秋」
「スポーツの秋」
 というものだ。
 そもそも、最後のスポーツの秋という言葉は、
「東京オリンピック開催が、秋だった」
 ということから定着してきた言葉であり、
「国民の休日」
 である、
「体育の日」
 と同じ意味あいだ。
 しかし、今の時代は、
「休日が毎年決まっていない」
 といわれる休日が増え、体育の日も例外ではなく、元々は
「10月10日」
 ということであった。
 それは元々、東京オリンピックの開催日が、その日だったということから制定されたもので、その意味からいけば、
「日付を変えてはいけない」
 というはずなのに、政府の都合で、変えてしまったのだ。
「政府の都合」
 というのは言い過ぎかも知れないが。経済を回すということのために、
「月曜日に休日を増やすことで、国民に金を使わせよう」
 というたくらみなのだから、
「政府の都合」
 といっても、あながち間違いというわけでもないだろう。
 ちなみに、今はオリンピックというと、昔のように、
「秋に開会式」
 ということはしなくなった。
 時代がこれだけ、
「地球沸騰化」
 ということで、本来であれば秋に戻すべきものを戻さないというのは、
「オリンピック協会」
 と、
「某超大国」
 による都合があるからだ。
 というのは、
「オリンピック協会」
 における収入源というのは、
「放映権」
 というのが大きいという。
 特に世界の超大国がその放映に対して莫大な金を協会に落としているということになれば、その、
「某超大国」
 の都合で、変わってくるということで、
「その国に人気スポーツのファイナルが秋に目白押し」
 ということで、その国が、
「オリンピックの放映権を買わない」
 ということになると
「オリンピック協会」
 というものが、
「暴利を貪れない」
 ということから、
「どうすればいいか」
 ということで、
「オリンピックの開催を夏にするしかない」
 ということになるのであった。
 本来であれば、
「そんなことのために、表にいるだけで、ぶっ倒れそうな時に、オリンピックなどというと、それこそ、
「選手だけではなく、観客も命が危険に晒される」
 ということになる。
 そうなると、観客は減ってくるのかも知れないが、そもそもプラチナチケット。
「今までは買えなかったという人が買えるようになった」
 というだけで、
「満席に変わりはない」
 といえるだろう。
 それを考えると、
「日本にしても、世界にしても、結局は、強いものに巻かれる」
 という形になるのである。
「本来の秋」
 というのは、
「精神的に余裕ができる」
 ということで、
「食欲がわいてくる」
 というのも当たり前だ。
 しかも、
「穀物であったり、果実などの収穫時期」
 ということもあって、
「秋の味覚」
作品名:いたちごっこの光と影 作家名:森本晃次