分裂犯罪
そして、最終選考になると、初めて作品に対しての一つ一つの評価が書かれているというものだ。
だから、作品というものに対して、選考委員がちゃんと読んでいるかどうかは、
「最終選考までいかないと、専門家に読まれることはない」
ということを意味している。
そして、その選考委員というのも、
「自分の仕事以外の、副業でやっている」
ということを考えると、
「どこまで真剣なものなのか」
ということになるだろう。
しかも、入選すれば、確かに、作家としての、スタートラインに立てたと言えるのかもしれないが、それは、作家側の考えであり、出版社側からは、
「やっと、スタートラインに立つ権利を持った人間が現れた」
ということである。
出版社とすれば、
「問題は樹種策ではなく、次回作だ」
ということである。
受賞作というのは、基本的に、
「ジャンルだけを決めておいて、その内容は基本的に自由である」
ということだ。
確かに、
「ジャンルは決まっていて、後は自由」
というのは、ある意味、
「一番難しいことだ」
といえるかもしれない。
しかし、実際には、その逆ということで、
「入選したのは、プロの先生の好きな小説として嵌った」
ということだけであろう。
ある意味、
「選考委員との相性がよかった」
ということであり、作家として、これからやっていけるかどうかというのは、まったくの未知数ということである。
受賞作を、担当がどう感じたのかも、出版社が何を求めているのかということは別であり、あくまでも、編集者が編集会議で、
「どういう作品を欲しがっているか?」
ということで、その内容が、作家にとって、得意か得意でないかというのは、二の次である。
出版社とすれば、
「この人ができないといえば、他の人に書かせるだけ」
ということであるが、納品日という締め切りに制限があるということになるので、執筆にそんなに時間はかけられないということになる。
そんな編集部の意向も知らずに、
「自分は作家の仲間入りだ」
なるほと思っていると、本当にスタートラインに立つこともなく、小説家になるということを断念しなければいけないのであろう。
それが、作家というものである。
そして、もう一つの、
「原稿持ち込み」
というもの。
こちらは、さらにたちが悪い。
新人賞などの場合は、その透明性が疑わしいということで、グレーな部分が多く、なかなか評価が分からないというところがあるが、持ち込みとなると、もっとひどい現状が待っているということになるのだ。
そもそも、出版社にやってきて、見てくれる人が誰であれ、その人は本業を持っていて、それだけで大変なのだ。
一般社員にだって、担当作家がいて、その作家に対して、相談を受けたり、企画を考えたり、小説の内容を、最初に審議したものと変わりはないかなどのチェックをしたり、さらには、印刷に回して、本にする手配までしなければいけない。
ときには、作家の家に張り付いて、原稿を促すなどという、テレビなどでよく見ることもしなければいけない。
そんな人が、何を好き好んで、自分お仕事でもない人の原稿を見なければいけないというのか?
それこそ、無駄な時間ということになるだろう。
当然、残業手当が出るわけでもない。まったくのボランティアである。相手にされないのも当然だ。
となると、編集長や、所長クラスの人が見るということになるだろうが、彼らだって、責任者としての立場から、門前払いもできないということから、一応は相手をするということになるだろう。
もっとも、それくらいの仕事もありということからなのかもしれないが、とりあえずは、面談くらいはする。話は聞いてあげても、すぐに、
「しょうもない話を聞かされる」
と思うことだろう。
それこそ、毎日のように、まるで、テープレコーダーを聞いているように、ほとんど同じセリフを吐かれるのは、正直うんざりである。早く追っ払いたいと思いながらも、とりあえずは、聞いているふりをする。聞いている方としては、地獄の時間なのかもしれない。
そうなると、一応は受け取った原稿であるが、見るわけもない。君箱にポイで終わりということになる。
それが、持ち込み原稿の運命ということだ。
作家の方は、一応は、渡したことで満足はするかもしれないが、それがどうなるのかということは分かっているのだろうか?
手元に原稿を残していなければ、その原稿の運命はそこで終わりということであろう。さすがに、持ち込む方も、南部かコピーしたり、プリントアウトはしていて、他のしゃっパン社にも、持ち込んでいることであろう。
それこそ、
「就活で、複数の会社を受けるというのと同じ理屈ということである。
そういう意味では、持ち込み原稿というのは、どっちもどっちなのかもしれない。
「どこかにでも、引っかかってくれれば御の字」
と、作家は思っているだろうが、万に一つもありえないということをわかっているというのだろうか?
それを考えると、持ち込み原稿ほど、無駄なことはないともいえるだろう。
そうなると、
「素人作家が分断デビューなどありえない」
ということになる。
それでも、新人賞を獲得すれば、登竜門を合格したということで、その道は開けることになるだろう。
作家としても、
「認められた」
ということで有頂天になるに違いない。
そこで勘違いする人が多いというのは、
「これが、スタートラインに立つ権利を得た」
というだけで、ゴールどころか、スタートラインにも立っていないのだ。
中には、そこで満足してしまい、
「燃え尽き症候群」
のようになってしまうことで、
「受賞作が、自分の最高傑作ということになるので、っこれ以上の作品を書くことはできない」
という人も多いだろう。
しかし、出版社は、
「あくまでも、次回作で評価する」
ということだ。
つまりは、
「次回作の出来次第が、スタートラインということになる」
ということなのだ。
だから、次回作への期待の大きさがプレッシャーとなり、中には逃げ出す人もいるという。しかし、中には、新人賞を受賞したということから、
「自分はプロ作家としてデビューするんだ」
ということで、それまで働いていた会社を辞めてしまうという人もいるだろう。
しかし、実際に、次回作へのプレッシャーに負けてしまった人というのは、
「自分ではしごを外した」
ということで、自分から自分を置き去りにしてしまった格好になる。
そのせいで、
「今さら、就職するという気にもならない」
ということで、しかも、
「小説家としてやっていくということも自信がなくなった」
と考えると、
「とりあえず、文筆業をやりながら、アルバイトをして生活をしていく」
という人生を選ぶしかないということである。
これが、
「作家を目指して、アルバイトをしている」
という人に比べれば、数倍きつい人生ということであろう。
実際には、目指すべき作家への道の扉を開きかけ、一度はその先を垣間見た人間としてみれば、



