分裂犯罪
というものもなくなるということであろうが、一生懸命に働こうが働かなくても、給料が一緒であれば、進歩はないということであろう。
だとすれば、
「国家的な進歩はなくなってしまい、他国と争うことはできない」
ということになる。
そのためには、優秀な人材には、その力を発揮させなければいけない。そこで国家がやるのは、
「強い国家の建設」
ということで、さらには、
「恐怖政治」
ということだ。
つまりは、
「カネではなく、脅迫観念を植え付けることで、仕事をやらせる」
という強引なやり方である。
しかし、そうなると、国家元首は、
「いつかクーデターを起こされる」
ということに怯えながらの生活となり、気も休まらないということから、怪しい人間は、どんどん抹殺するという、
「粛清政策に舵を切る」
ということになるだろう。
そうなると、結果的にどこかで反発がピークとなり、クーデターが起こることで、壊れてしまうという運命が待っているのだ。
それが、
「1世紀ももたなかった」
といわれる共産主義というものの正体だったということである。
今でも若干の共産圏の国はあるが、以前のような、共産圏という世界地図を二分する勢力には程遠い。つまり、
「共産主義というのは、民主主義に対抗できる勢力ではなかった」
ということになるだろう。
一つの村で、領主として君臨した佐藤家と、それを支える遠藤家というのが、それこそ、
「上杉家と直江家」
をモデルにした村運営ということで、実際には、最近までうまくいっていたということであった。
しかし、そんな時代も、次第に、
「戦後の農地改革」
などで、そもそも、領主のようなやり方は通用しなくなってきた。
そんなこともあって、佐藤家と遠藤家も、少しずギアチェンジを余儀なくされてきて、それでも、何とか、農地改革は乗り切ってきたのだ。
それでも、
「村自体がなくなる」
という事態になれば、そうもいかなくなり、平成になってからの、
「大規模市町村合併」
では、完全に、最終的には、
「F市に吸収される」
という憂き目にあったのである。
そもそも、村民はほとんどいなかったこともあってか、村民のほとんどは、
「F市に合併される」
ということをよしと考えている人が多かった。
そうなってしまっては、かつての領主という形になるわけにもいかず、結局は、
「野に下る」
ということにしかないわけであった。
実際に、先代の父親の時代で、
「村における佐藤氏」
というのは、滅亡したということである。
それに伴って、遠藤氏も同じように、村から出るということになった。
最初こそ、
「いきなり村から放り出された佐藤氏を、一人にさせるわけにはいかない」
ということで、少しでも、外の世界を知っている遠藤氏が、最初はいろいろとしながら、外の世界の、
「しきたり」
というものを教えていた。
今の世代の息子も、その頃のことを勉強していて、今では、
「しっかりとした市民」
ということになっていた。
息子の代になれば、」さすがに遠藤家の助けもいらないということで、遠藤氏は独立して、新たな町で、生活をすることになったのだ。
そもそも、生活費は、立ち退き料で、巨額の富を手に入れていた。
それこそ、
「親父が一生かかっても使いきれないほどのお金」
といってもいいかもしれないが、さすがに、
「息子に残したい」
という意図があったからなのか、父親の遺産は結構なものだった。
実際に、持ち家もあったので、そこで暮らしていた。
そんなに大富豪ということのない、一般的な住宅で、それこそ、昔の領主の家から比べれば、それこそ、
「ウサギ小屋」
という表現がぴったりかもしれないが、それも、狭いなら狭いで、何もすることのない状況では、それくらいがちょうどよかったのだ。
父親は、サラリーマンになった。
実際に、父親が、
「領主ということで、村に君臨していた」
ということはほとんどなかっただけに、それほどの抵抗はなかったのだが、さすがに、社会人としては、思うようにいかないところもあったようで、かなりの苦労があったという。
特に、
「これまでは、先祖はすべてが君主だった」
ということで、その遺伝子を受け継いでいるということから、
「命令されることへの抵抗」
というのは、それなりにあったことだろう。
とはいえ、
「自分で判断することはないだけに、気は楽だ」
ということもあった。
そこに対しては、うまく順応できたところから、何とか定年まで仕事ができたということだったのだが、安心したのか、長生きをすることはなかった。
息子とすれば、大学を卒業し、独立をしていたのだが、彼は、そこで、
「作家への道」
というものにあこがれを持ち、大学時代から、真剣に作家になるということを夢見るようになっていた。
文芸サークルにも所属をし、小説新人賞なども、積極的に公募に応じていたということであったが、
「なかなかうまくはいかないな」
と思っていた。
小説家になるということに関して、
「一番難しく、最初のハードルだ」
といわれていることとして、
「作品を最後まで書き上げることができない」
ということが一番大きいということであったが、そのことは自分なりに理解していてたのだが、実際にそのハードルは、そんなに高くはなかった。
もちろん、最初の作品は、自分で納得できるような作品ではなかったが、
「書き上げることが大切」
ということをわかっていただけに、最初の作品は、
「その礎」
ということで、自分の中の捨て石のような気持ちでいたのだ。
しかし、実際に、この作品は捨て石などではなかった。
それから以降の彼の作品に対して、大きな影響力を与えているのは確かで、実際に、その路線を変えることもなかったし、また、替えてしまうだけの理由も存在しないということであった。
だから、彼は、同じ書き方をずっと続けていて、そのうちに、
「これが、俺の書き方なんだ」
と思うようになったところで、新人賞の佳作をもらうというところまで来たということであった。
その作品は、
「自分としては、納得のいく作品」
ということで、
「まあまあ、いいところまでは行くかも?」
と思っていた。
さすがに、最終選考まで残るとは思わなかった」
とも感じていた。
その理由は、
「今までに10回ほど、応募してきたけど、1次選考を突破したというのは、1度しかなかった」
ということで、すっかり自信喪失になりかかっていたということだったからである。
「2次審査でも、通れば御の字」
ということで、その頃は応募していたのだが、それが、最終選考はおろか、佳作にまで抜擢されるということは、これ以上の悦びはなかったのだ。
その出版社とすれば、
「新人賞はもちろんのこと、佳作以上は、担当の人との話で、出版化も可能です」
ということであった。
当然、佳作の上には、
「特別賞」
というものもあり、さらには、
「佳作の人も一人ではなく、3人いる」
ということで、出版社としても、
「全員の出版化までは考えていない」



