分裂犯罪
ということで、何でも自分でしなければいけないというわけだ。
「仕事を取ってくる」
というのも、自分の仕事になるわけで、それだけ、神経をすり減らすということにもなるだろう。
そういう意味では、逆に、
「佐藤氏への支援」
というのは、自分の仕事のストレスの発散にもつながるということで、
「俺にとって、仕事との両立は、ちょうどいいのかもしれないな」
ということで、
「小説家になりたい」
という夢は、どうしても、二の次になっていたのだ。
そして、そんな佐藤氏が、今回取材で得てきた内容が、佐藤氏の今回の小説に影響を与えるということになったのであった。
というのが、
「読者の皆さんは、耽美主義というのをご存じであろうか?」
という言葉から始まる小説であった。
これを、作者は今一度、この小説を読んでいる数少ないであろう読者に問うのであるが、
「耽美主義」
というのは、どういうことなのだろうか?
「道徳やモラルなどよりも、美というものが最優先される」
という主義のことだという定義があるが、実際には、それが、
「芸術」
や、
「文芸」
などに使われるということであった。
しかし、それが、小説の中などでは、
「犯罪に利用される」
ということで、
「美しい殺害現場」
であるために、
「殺害現場を、華々しく彩る」
ということで使われたりもする。
特に、
「血の色」
というのが、真っ赤な鮮血ということで、その美しさに魅了されるという人もいることから、犯罪における耽美主義というのを、最近では強く感じている人もいるのではないだろうか?
そういう意味で、
「猟奇殺人」
であったり、
「変質者の犯行」
ということで、考えられることが多いが、中には、
「変質者の犯行」
と思わせ宇ためのトリックがそこに含まれているということもあるということである。
ミステリー小説を志していた遠藤氏であるが、佐藤氏のために、
「都市伝説」
であったり、
「奇妙な物語」
というもののネタを取材として探している中において、自然と、自分も、
「耽美主義に、造詣を深めている」
ということになっていることを、感じるようになっていた。
実際に、
「耽美主義」
というものがどういうものなのか?
プロの小説家の作品も結構読んだ。
それらの作品を読んでから、佐藤氏の作品を読むと、
「さすがに、ちょっと規模が小さいような気がするな」
と思わせる。
しかし、それは、正常な感覚というもので、
「相手は、プロとして名をはせたつわものばかりだ」
ということを思えば、それも無理もないということになる。
実際に、遠藤氏としても、
「自分のミステリーに、耽美主義というのは、ハードルが高すぎるのだろうか?」
とも考えたが、彼が今まで仕入れてきたネタを、すべて佐藤氏に提供しているというわけではない。
一部は、自分で温めている。
というのは、
「いずれ、それを自分で使うつもりとしての、最終兵器だ」
というくらいに思っているのであった。
しかし、実際に佐藤氏にあげたネタでも、
「これは、使えないかな?」
と、佐藤氏が公言したものもあった。
そんなネタを、遠藤氏は、密かに持ち帰っていた。
「それなら、俺が使おう」
ということで、笑いながらではあったが、半ば本気だったということであろう。
だから、
「佐藤氏がボツにする」
という内容は、遠藤氏にとっては、
「自分のストック」
ということで、ありがたいとも思っている。
しかも、その内容は、
「俺が使ってみたい」
と思うネタが多いことで、余計に、遠藤は創作意欲というものを駆り立てられるということであった。
そういう意味では、
「佐藤氏の存在は、俺の執筆意欲を駆り立てるという意味でも、貴重な存在だ」
と思っていた。
実際に、そんなことを思うということは、それだけ、
「それまでの、家老としての意識が薄れている」
ということになるだろう。
それは、
「自分が小説を書きたい」
と感じるようになったことからであろう。
そうなると、これからは、
「主君と家老という主従の関係から、今度は立場的には平等な、ライバル」
ということになるのかもしれない。
遠藤は、少しずつ、
「ライバル意識」
というものが高まってきたが、佐藤氏の方はどうであろうか?
ライバルというわけでHないかもしれないが、
「主従ではない」
ということに間違いはない。
そもそも、今までの主従という考えが、今の時代に合うというものではないだけに、
「俺たちの感覚が、今の時代に追いついてきたということになるのだろうな」
ということであろう。
「俺たちは、これからどうやっていけばいいんだ?」
ということを考えてみると、
「やはり、お互いに切磋琢磨しながらやっていうことになるだろう」
ということで、これまでのような、
「支援者」
というわけにはいかない。
それができるのは、あと少しということで、
「近い井内に、佐藤に引導を渡さなければいけないな」
と思っていた。
そうなると、
「出版社も辞めることになるかもしれないな」
ということであった。
それが、佐藤にとって、
「青天の霹靂」
ということになるのかもしれないが、
「遅かれ早かれ、こうなるということだ」
ということであれば、それこそ、
「早いに越したことはない」
といってもいいだろう。
その時の佐藤氏の動揺がどれくらいのものになるかということは、
「想像に絶するものがある」
といってもいいだろう。
遠藤氏とすれば、どのようにすればいいのか、自分でもよくわかっていないのであった。
遠藤氏は、。家老という血のせいなのか、
「相手がどう考えるか?」
ということが、一番の最優先ということになる。
それがいいことなのか、悪いことなのか、遠藤氏には、よくわからないということであったのだ。
そもそも、今までの佐藤氏が出している作品は、半分は、遠藤のアイデアが入っている。それは、昔からの
「家老」
としての任務の意識からなのか、遠藤は表に出ようという気はしない。
「少しは、お前の名前で発表してもいいんだぞ」
と、佐藤氏は、遠藤にそういうが、遠藤は苦笑いしながら、
「いやいやいいんだ」
といって、マジで鼻で笑っているのだ。
しかし、そういう佐藤氏も、そんな遠藤の考えが分かって見越して言っているのか、彼自身も、鼻で笑っているのだ。
そんな光景を見ていると、
「この二人の関係性って何なんだ?」
と感じてしまうことだろう。
だから、二人を知る共通の人間というのは、実は結構数少ない。
「遠藤は知っているが、佐藤は知らない」
あるいは、
「佐藤は知っているが、遠藤は知らない」
という人がほとんどである。
しかし、そんな人の二人に対しての印象は決していいということはない。
佐藤に対しては、
「いつも、中心にいないと気が済まないようなやつだ」
という印象が大きいようで、遠藤に対しては、
「そんなに引け目にならなくてもいいのに」



