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分裂犯罪

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 というように、まるで二人の過去からの因縁を思わせるような感じである。
 そして、城通に知っている人も、
「あの二人はいつも一緒にいるが、決してかみ合っていない」
 といっている。
 どちらかが、しゃべるとどちらがが黙ってしまって、会話が成立しないのだという。
 それを聞いた、
「それぞれしかしらない人は、それを聞いた瞬間に、見たこともない相手の性格が手に取るように分かる」
 というのだから、それこそ二人の関係というのは、
「これ以上分かりやすい関係ということはないだろう」
 ということであろう。
 しかし、不思議なことに、佐藤氏を知っている人は、
「どうも、奴隷にしているやつがいるらしい」
 という共通の意見であるが、逆に、遠藤を知っている人は、
「やつのあの目は、従順に従っているようで、機会があれば、下剋上を狙っていると思わせる目をしている」
 といわれるくらいだ。
「もし、戦国武将なら、二人のうちのどちらかが、天下を取れるかな?」
 という話になれば、
「佐藤に関しては、絶対にないな」
 という意見であるが、遠藤に関しては、考えが分かれるという、
「遠藤には天下を取れる」
 と思っている人の大方は、
「希望的観測」
 というものが往々にして入っているということだ。
「ナンバー2が、天下を取る世界線は、歴史の常套だからな」
 ということである。
 実際に、
「秀吉、家康」
 と渡ってきた天下も、半分は、
「タナボタ的なところがあった」
 といってもいいだろう。
 偶然がなければ、歴史は変えられないということで、問題は、
「遠藤に、運があるかどうか?」
 ということになるわけで、
「運がいい」
 と思っている人は天下を取れるというだろうし、
「運が悪い」
 と思っている人は、天下なんかとれるわけはないというであろう。
 それが、ちょうど半々くらいになっているというのが、遠藤という男の性格から出る、見方というものだ。
「遠藤は、先祖代々、過半数というものを意識する家系だった」
 といわれている。
 これは、戦の数ということでもそうであるが、総力戦になった時に、いかに、戦の均衡を保つことができるかということを、
「極意」
 としてきたという。
「群雄割拠の戦国時代、拮抗する戦国大名との戦では、長期戦となることも多いだろう。しかし、そんな中で、戦を制するのは、その流れをつかんだ方だ」
 ということである。
 つまりは、
「最初は、お互いに一歩も引かずに五部の戦をしているが、こちらに、少しでも余裕があれば、最期は押し勝つことができる」
 ということで、
「そのためには、勢いを制するという必要があるということで、相手をいかに、戦力を消耗させるか」
 ということである。
「そのためには、相手に力以上の緊張感を持たせて、その間に相手の力を消耗させる」
 ということで、いざとなった時、温存していた勢いで、こちらが押し切れば、相手は勝手に、混乱し、何もせずとも、勝利は舞い込む」
 という作戦だという。
 もちろん、よほど相手の力を研究しておかなければできないことだ。
 そのために、スパイを冠者として、忍者のように潜入させるということが必要である。それに長けていたのが、
「遠藤家だ」
 ということだ。
 そして、極意として、
「決して、相手に悟らせない」
 ということが必要で、そのために、敢えて、
「軍師に収まっている」
 ということであった。
 ただ実際には、遠藤氏も自分の中で小説を密かに書いていた。しかし、それは、
「決して公開されることのない小説で、公開はしないが、いずれ人の目に触れることになるものとして、遠藤氏が温めていたもの」
 ということであった。
 だから、遠藤氏とすれば、ある意味、佐藤氏に書かせている小説は、そんな自分の小説の集大成ともいえるものの、
「隠れ蓑」
 としての意味合いと、
「練習台」
 としての意味合いとに分かれるのではないかとも思えるのであった。
 それが、どんな小説なのかというと、それこそが、
「耽美主義」
 と呼ばれるものなのかもしれない。

                 不治の病

 警察が踏み込んだその場所には、何とも言えない臭いが立ち込めていた。
 このような現場には慣れているはずの警察官や刑事でも、平気で淡々と、
「まるで普段から毎日の日課であるかのようにふるまっている」
 というように見えるのだが、実際には、
「いつまで経っても、慣れるわけなんかないさ」
 と、心の奥では思っているに違いない。
 そもそも、
「こんなことに慣れたくもないわ」
 というのが本音で、そもそも、
「世の中に犯罪などなければ、自分たちの存在もないのかもしれない」
 という複雑な思いを抱いていた。
 特に、こんな場面を見せられれば、やりきれない気持ちになるというのも当然のことであり、それを思えば、
「この時だけは、自分が警察官であることを後悔することもないだろう」
 と思う。
 しかし、その惨状が酷ければひどいほぢ、警察官としての正義感がみなぎってきて、
「俺たちにしかできない」
 という使命感も溢れてくる。そのおかげで、仕事に対しての強い気持ちを持つことができるというのも、皮肉なものだ。
 今回の現場は、確かに異臭は漂っているが、どこか、ほのかな香りも漂っている。
 どうしようもない惨状の異臭を、少しでも和らげようとしてなのか、芳香剤が漂っているのだ。
 そして、その現場には、たくさんの花びらがちりばめられている。それこそ、
「一部の探偵小説などでは、そんな描写が描かれるものもある」
 ということで、それを、
「耽美主義という」
 ということは、ここにいる警察官のほとんどは分かっているようだった。
 しかし、
「どうして、こんな手のかかることをする必要があるのか?」
 ということは、その現場を見てすぐに分かるわけではない。
「ひょっとすると、犯人が捜査をかく乱するために、わざと施した装飾なのかもしれない」
 とも言えなくもないからだ。
 しかし、かく乱させるためということであれば、そこに何らかの計略が潜んでいなければならないが、一見すると、そこに、どんな計略があるのかということが、分かるはずもなかった。
 警察官として、その惨状は、キレイであればあるほど、醜さというものも、裏に潜んでいる気がする。
 それは、
「人間の内面的な思い」
 というものであり、それが動機であったり、犯人の恨みにつながってくると考えると、現場の装飾が美しければ美しいほど、捜査員は、ゾッとしたものを感じさせられるということであった。
 花びらは全部同じ種類ではない。
 それこそ、ちりばめられた花びらで、フラワーアレンジメントを描いているかのようだった。
 それを思えば、
「この犯人は、そういうフラワーアレンジメント系の人間なんだろうか?」
 とも思わせた。
 確かに、幾種類の花束を、地面にちりばめることで、平面を彩るという意味では、そこに、何かの法則でもあるのかということを思わせるが、逆にそう思ってみると、今度は、その芸術性が、無造作にも感じられた。
 これが、逆に規則性を施しているということであれば、
作品名:分裂犯罪 作家名:森本晃次