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質より量

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「大人になれば、自分の子供の頃のことをすっかり忘れているのか、自分がされたいやなことであっても、自分の子供にしてしまう」
 ということが当たり前のように思える、
 成長すればわかることなのか、
「親には親の立場があって、親になって初めて分かることだ」
 ということになると考えれば、親の行動は、子供にとって理不尽かも知れないが、
「これが、子供が親になる」
 ということになるのだろう。
「子供はいずれ、親になることはできるが、親が子供に戻るということはありえないことだ」
 といえるだろう、
 だから、
「子供というのは、永遠に、親に対して、理不尽な思いを抱き続ける」
 というもので、
「子供は親になってしまうと、子供ではなくなる」
 ということになるだろう。
 つまり、
「一人の人間の中に、親と子供を共有する」
 ということは不可能なのだといえるのではないだろうか?
 だが、本当に、
「大人になれば、大人としての考えになるのだろうか?」
 と考えると、今の時代では、
「ほど遠い」
 と考える。
 その最たる例が、
「幼児虐待」
 というものだ。
 親が、
「子供は自分の所有物」
 ということで、
「親にすべての権限がある」
 と思い込んでいることである。
「育ててやるかわりに、親の言いなりになれ」
 とでもいうのか、そもそも、こんな親になったのは、
「子供の頃に親から受けた仕打ちを、歪んだ形で解釈し、それを逆恨みということになるのかも知れない」
 普通逆恨みというと、
「自分に対して何か恨まれることをした人間に対し、理不尽な仕返しをする」
 などということを、
「逆恨み」
 という言い方でするものではないだろうか?
「実際に、親に対しての恨みごとがない」
 という子供のいないだろう。
 それが、
「親が子供に対してする、教育」
 というものであったり、今の時代の、
「幼児虐待」
 というものかも知れない。
 それが、
「苛め」
 と
「躾」
 の違いといってもいいだろう。
 つまりは、
「躾という言葉を使って、自分を正当化し、その言葉を免罪符にして、子供を我が物にしよう」
 というのが、
「幼児虐待」
 ということであろうか。
 児童相談所などが判断することになるのだろうが、
「虐待だ」
 と認定されると、その時点で、
「親失格」
 ということになり、
「親ではなく、犯罪者というレッテルを貼られる」
 ということになるだろう。
 さすがにこの時の、真一少年は、まだ、
「躾の範囲内」
 といってもいいかも知れないが、正直、
「大人になっても、いまだに親が理不尽だ」
 と考えることに変わりはない、
 もし、それを理解できるとすれば、
「自分が親になった時」
 ということでしかないだろう。
 その時は家に帰ってから、
「父親に聞いてみよう」
 ということで、みじめな思いから、
「どこをどう通って帰ったのか、記憶にない」
 というくらいのみじめな思いを抱きながら帰途に就いたくらいだったのに、家に帰ってみると、案の定、家の雰囲気は、異常だった。
 それを見た瞬間。
「分かっていたことではあったが」
 ということで、
「俺のせいなんだろうな」
 と、まずは、自分を責めた。
 そうでなければ、理不尽さだけで家に帰ってきたことになり、余計に、家に帰ってまで、自分のみじめさを感じ続けなければいけないと思ったのだ。
 だから、
「悪いのは自分だ」
 という気持ちをどこかにもっておかなければいけないということで、
「これこそが、みじめさを感じた時の、自分の免罪符だ」
 ということで、本来であれば、
「逃げの意識だ」
 と感じることを、逆に、
「自分を悪者にすることで、正当性を保ちたい」
 という気持ちがあふれていたのだろう。
 ただ、親の方も、
「これは計算なのか?」
 と思うところで、
「お父さんは?」
 と聞くと、
「あんたが情けないとかで、頭が痛くなったって寝ちゃった」
 というではないか、
 母親も、
「指示を仰ぐ相手」
 ということで、
「おんぶにだっこ状態」
 という父親が寝てしまったということなので、もう何も言わず、ただぶすっとしていた。
 それこそ、
「あんたのせいよ」
 と言わんばかりである。
 こうなると、子供としては、どうすることもできなくなり、
「明日しかないか」
 と思うのだが、結局、翌日になると、父親は不機嫌ではあるが、何も言おうとはしないのだった。
 少し時間が経ったことで、
「怒りが遠のいてしまった」
 ということから、
「今さら蒸し返すのは、無意味」
 と思ってしまったことで、結局、
「うまくはぐらかされた」
 ということで、
「親子間の争い」
 ということでは、完全に、
「親に逃げ切られてしまった」
 ということになり、
「子供の負けだ」
 ということになるだろう。
 もう、みじめさというものが消えてしまうと、これ以上蒸し返すことは、まったく無意味だということになるのであった。
 ただ、これは、
「子供が大人になる」
 ということのために、
「通らなければいけない」
 という道なのかも知れない。
 ただ、その答えとして、
「他の友達のように、親から許しを得て」
 その夜に、
「大人への階段」
 というものを勉強ができる儀式だったとすれば、
「大人への階段」
 をみすみす逃したということで、その責任は、
「親にある」
 といってもいいだろう。
 子供の成長を、
「親が妨げる」
 ということは、ある意味、
「親の義務違反」
 ということであろう。
「子供の教育」
 というのが、
「親の義務」
 ということであり、そのために与えられている力というものがあるとすれば、それが、
「権利」
 というものかも知れない。
 つまり、
「義務を果たすための力を、権利だ」
 ということであれば、
「民主主義においての権利」
 というのは、
「義務」
 というものに裏付けられたものでないといけないということになるであろう。
 昔の時代というのは、
「義務:
 というものが中心になっていて、それを果たすために、国家権力というものがあり、
「上からの押さえつけ」
 ということだったのだろう。
 しかし、民主主義という世界は、やはり基本は
「義務」
 というものであり、それを果たすために、与えられたものが権利だということになると、
「今も昔の大切なのは、秩序やモラル」
 というものではないだろうか?
 今の世の中というのは、
「権利ばかりを主張する」
 ということで、実際に守らなければいけない、
「秩序」
 や、
「モラル」
 などと、権利を天秤に架けることで、解決方法を見失った時代になりかかっていたのだろう。
 だから、異までは、
「秩序」
 や
「モラル」
 というものを守るということで、
「ハラスメント」
 と呼ばれる考え方からの、
「コンプライアンスを守る」
 という時代になってきたのだ。
 昭和の頃までは、
「秩序を守るのは、与えられた権利というものとのバランス」
 と考えられていたことが、大きな問題だったのかも知れない。
「個人の権利」
 というものが守られれば、
「義務は果たされる」
作品名:質より量 作家名:森本晃次