多重推理
「あるところから、時系列が逆になっている」
ということであり、
「すべてではない」
ということだ。
その記憶が逆転するところで、自分にとっての、
「記憶のトラウマ」
のようなものがあるのかも知れない。
それが、
「自分の中にある、自分にショックを与えるような記憶」
であったり、
「その時起こったことが、その後の人生を変化させるだけの、何かの力を持った時期があった」
ということがあった場合、それが、
「思い出したい記憶」
というものと、
「思い出したくない記憶」
というものそれぞれだといってもいい。
だが、
「思い出したい記憶だから」
といって、
「絶対に思い出せる」
とはいえない。
逆に皮肉なことに、
「思い出したい」
と思っている記憶の方が、実際には思い出せなかったりするのだ。
「どうして、そんなことが分かるのか?」
ということであるが、それが、
「夢の記憶」
というものと微妙に結びついているということから、
「皮肉なことであり、微妙だ」
といえるのではないだろうか。
実際に、
「夢のメカニズム」
というのは、現代でも、いまだ解明されていない。
また、
「デジャブ現象」
というものも同じで、
「はっきりと解明されていない」
ということから、逆に、
「いろいろな発想が生まれてくる土壌にある」
といってもいいだろう。
「夢というものが、いかに曖昧でありながら、神秘的だと感じるのか?」
と考えると、
「いずれ解明されることなのかも知れないが、それは、自分が生きている間には無理なことで、ずっと、夢は夢の世界」
ということで終わるのではないか?
と考えるのだ。
あるいは、それこそ、
「人間が人間である以上。永遠の謎」
ということになるのではないだろうか?
ただ、実際には、何もなければ、
「記憶というものは、時系列で並んでいるはずのものだ」
と言ってもいいだろう。
記憶が時系列で並ばないというのは、何かのきっかけでその記憶を思い出した時、その記憶を、
「まるで昨日のことのように感じる」
と思わせたいからではないだろうか。
その瞬間だけを、
「昨日のこと」
と感じるだけでは、その事実が、自分の中で事実として感じられないという気持ちにさせるのではないかと考えると、
「記憶の時系列が、簡単に崩れることで、そこに存在しているはずの結界」
であったり、
「意識を正当化させるだけの何かを思い出さないといけない」
というわけで、
「記憶が遠ければ遠いほど、その辻褄を合わせるのが大変になってくる」
ということであろう。
それが、
「デジャブ現象の正体だ」
ということであれば、ひょっとすると、
「ロボット開発におけるフレーム問題」
というものも、この
「デジャブ現象」
というものとを、
「一緒に考える」
ということにすれば、辻褄が合うのではないかとも考えられる。
だから、この時、
「血の臭い」
というものを感じたこの男は、瞬時にして、
「蔵のある家」
が、頭の中の映像として出てきたのかも知れない。
その映像をさらに思い浮かべると、今度は、自分が子供だったということを思い出し、さらに、今度は、
「小学生の頃の記憶なのに、まるで、昨日のことのようだ」
と、理詰めで考えるのだろうが、結局は、
「まるで昨日のことのようだ」
ということを、まるで、一番、
「優先順位が高い」
と思わせるに違いない。
その血の臭いを感じたのは、その時だけだった。
それ以降、人がケガをするという場面には立ち会っていなかったからだ。
しかし、
「自分がケガをした」
ということは何度となくあった。
「彫刻刀を使っていて、思わず、指を切ってしまい、外科で数針縫った」
などということもあった。
しかし、その時、なぜか、
「血の臭い」
というものを感じなかった。
感じたのは、病院における、
「薬品の臭い」
というもので、その臭いのきつさというのは、かなりのものであった。
特に、
「ホルマリン」
の臭いを嗅いだという感覚だったのは、たぶん、
「これは、ホルマリンの臭い」
と、親が言ったからかも知れない。
まだ、小学生ことで、
「ホルマリン」
という言葉を聞いたのも、その時が最初だっただろう。
外科医院というものが、どういうところなのかというのも、実際に、
「簡易手術」
というものを受けて、初めて知ったということであろう。
ただ、実際には自分の血の臭いは嗅いだはずであった。
しかし、その嗅いだ血というのは、あくまでも、
「自分の血」
ということで、
「他人の血」
ではない。
「自分の中にあるもの」
ということを感じると、その血が、
「臭いを感じない」
ということになるのではないか?
と漠然と感じた。
これを実際に後になって、理屈として感じたのは、
「餃子の臭い」
などに疑問を持った時であった。
「餃子の臭い」
というのは、一般的に、
「餃子を食べると、臭い」
といわれる。
それは、
「ニンニクが入っているからだ」
ということであるが、実際に、生ニンニクというものは、取ってきただけでは臭いというものがするわけではない。
しかも、
「臭いを感じるのはあくまでも、自分ではなく、まわりの人だ」
ということである。
確かに、数人で餃子を食べると、自分の食べた餃子のニンニクの臭いを感じることはないが、まわりから、
「お前、今日餃子を食べたな?」
といわれる。
それは、
「自分が発する臭いは、自分では分からない」
ということだろう。
「自分の臭いは、自分で打ち消す」
という作用があるのか、
「当たり前のように感じるが、実際には、不思議なことだ」
といってもいいだろう。
そんな状況において、第一発見者が、すぐに警察に電話を掛けた。
本人は、
「発見から、電話を掛けるまでに、だいぶ時間が掛かった」
と思っていたが、実際にはどうだっただろう?
まるで、
「時間が止まった」
かのような錯覚があったが、それだけ、
「時間が経つのが遅かった」
ということであろう。
しかし、実際に警察が来てからは、あっという間の出来事であった。警察が、何を捜査しているのかまでは分からないが、
「サスペンスドラマを見ているようだ」
と思ったことで、それほどの不安はなく、なんといっても、
「自分は、ただの第一発見者だ」
ということであった。
ただ、分かっていたこととはいえ、
「やたら、同じことを何度も言わなければいけない」
というのは辛かった。
「何度も同じことを言っていると、自分でも、ずっと同じことが言えているのか不安だ」
と思うのだ。
つまりは、
「どうしても、相手が警察」
ということで緊張するし、この雑踏の雰囲気に中で、、
「冷静になれ」
という方が難しいということで、しかも、
「相手がどんどんと偉くなってくる」
ということで、時間の経過とともに、冷静になるどころか、先にうんざりしてしまうということで、
「どうすればいいんだ?」
ということになるのだった。



