多重推理
というどちらかの選択しかない会社が、今は世の中にあふれていると考えると、
「一つの会社にしがみつく必要もない」
ということであろう。
「実力主義」
といえば、聞こえはいいが、結局は、
「終身雇用」
という体制を保てなくなったということでの、言い訳に過ぎないということであろう。
そのサラリーマンも、毎日、仕事に熱中はしているが、
「いつどうなるか分からない」
という危機感を抱いて仕事をしていた。
「いつ、何があるか分からないな」
と思って、ほろ酔い気分で、ボーっとしていると、目の前にあるブランコの後ろが、少し雑木林のようになっているのだが、そこで、何やら、
「ガサガサ」
という音が聞こえてきた。
風が吹いているわけではない。その証拠に、まわりから、風が吹いているような音が聞こえるわけではないし、実際に、風が吹いているという感覚を感じることはなかったのだった。
それを思えば、
「気のせいか?」
と思ったのだが、そうでもないようだ。
その音の方に集中していた時はそうでもなかったが、そこから犬が出てきた時、その瞬間に驚かされた。
だが、次の瞬間、
「なんだ、犬か?」
と思ったのだが、その犬が何かを加えているようで、それが気になった。
そして、犬がこちらに尻尾を見せて、走ることもなく、ゆっくりと去っていったのだが、その時、今まで感じなかった風が通り抜けるのを感じた。
すると、
「なんだ、この臭いは?」
ということで、気持ち悪さというものが出てきたのを感じたのであった。
その臭いを感じた時、
「これは、死体発見につながるのではないか?」
と思えたのであった。
血の臭い
この臭いを感じたのは、子供の頃だった。
今では珍しい、蔵のある家が、子供の頃住んでいた田舎には、いくつかあった。
まるで、昔の、
「庄屋の家」
とでもいうような雰囲気で、ちょうど、家を改築していたのか、片方は、
「昔の家」
が残っていて、その隣に、
「新しい家」
というのを作っていた。
後から友達に聞くと、
「2世帯住宅だよ」
といっていた。
「それだけ作っても、まだ蔵が残っていて、敷地内には、きれいな庭がある」
というくらいのところだったのだ。
小学生の低学年の頃、友達と蔵で遊んでいた。鬼ごっこか何かだったのだろう。
「想像を絶するような、急な階段が作られていた」
ということで、子供心に、
「上るのが怖い」
と思ったが、実際には、
「上るよりも下る方が怖い」
というのが、下りる時の時間だった。
その恐怖心が、災いしたのか、結構高いところから、もう一人の友達が、転げ落ちたのであった、
ひざを擦りむいたのだが、その様子は、子供が見るには刺激的すぎた。
大人でも、目を背けるほどのその光景は、
「子供だからこそ、本当の恐怖を分からなかったのだろう」
ということであった。
だが、実際に、何が怖かったのかというと、
「嗅いだことのない臭い」
というものであった。
確かに、ひざを擦りむいて、ここまで血が噴き出しているところなど見たことがない。
大人の人は、
「骨が見ているじゃないか」
と、後で思えば、
「無神経なことを言っている」
と感じたが、その時は、皆パニックだったのだろう。
その臭いというのは、
「鉄分を含んだ」
ということが分かるような臭いで、実際に、鉄分を含んだ臭いなどというのを、子供が嗅いだことなどなかったはずなのに、
「どうして、感じることができたのか?」
と思うのだが、それはきっと、
「後になって、似たような臭いを嗅いだ時、それを思い出した時に、記憶が、上塗りされた証拠ではないか?」
ということであろう。
だから、
「後から感じた時の、その時というのが、この時だったのかも知れない」
と思うが、
「記憶が錯そうしている」
ということで、
「自分の中にある記憶が、曖昧になるところを、忘れそうになると、そのタイミングで、忘れないように、この地の臭いを意識させる出来事が起こるのかも知れない」
ということを考えたりする。
要するに、
「世の中の出来事は、どこかで、自分にとっての辻褄を合わせようとすることにつながるのではないか?」
と勘がられる。
それが、
「デジャブ現象」
というもののように。
「初めて見るはずなのに、以前にどこかで見たことがあるような」
という感覚にさせるということであった。
確かに、
「デジャブ現象」
というのは、
「記憶の中が錯そうして、どうしても思い出せない」
という時に、その言い訳として、
「デジャブ現象」
というものを持ち出すのではないか?
と考えられた。
というのは、
「本当は見たことがあったのに、見たことがないということを最優先で考えようとすると、どこかに、辻褄を合わせるための、自分に対しての言い訳が必要になり、それが、記憶というものを、曖昧にすることで、免罪符としての役割を持たせよう」
という考えに至るのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「物事の順序というものが、自分の記憶や意識に対して、大きな影響を与えるのではないだろうか?」
と感じた。
そういえば、
「長く生きれば生きるほど、記憶というのは、その期間に比例して、たくさんに膨れ上がってくるものだ」
というのは当たり前のことである。
だが、
「その記憶が大きければ大きいほど、曖昧になってくる」
というのも、当たり前のことである。
しかし、その記憶に、
「連鎖」
というものが存在し、その連鎖によって、つながっていくということになるのであれば、意識レベルに戻した時、
「どんなに、膨大な記憶でも、必要部分だけをほじくりだして、つなげることができる」
というのが、人間という生き物の特徴なのではないだろうか?
ただ、これは、他の動物にもあることなのかも知れない、
そうなると、この作用をもたらす原因というものは、
「本能」
というものだといえるのではないだろうか?
動物の場合は、
「人間のような意識や、考えるということができないので、それだけ、本能というものが発達している」
といえるだろう。
「無限の可能性」
というものが存在している中で、迷わず、
「自分で何をしなければいけないのか?」
ということを行うことができるというのは、
「本能というもののなせる業」
といってもいいだろう。
これが、
「フレーム問題」
というもので、
「ロボットにこの問題が解決できない」
ということから、
「ロボット開発は頓挫している」
ということになっているのであった。
しかし、人間も、
「長い間生きていると、記憶の順番」
つまりは、
「時系列」
というのが、記憶の中で曖昧になっているということも多かったりする。
大学時代に、
「中学時代の記憶」
と、
「小学校の頃の記憶」
というものを、それぞれ思い出そうとした時、
「小学生の頃の記憶の方が、最近のような気がする」
という、
「時系列が曖昧な記憶」
というものになっていることがある。
ただ、これも、



