夢の連鎖の悪夢
と呼ばれる友達だった。
彼とは、
「中学時代から、ずっと親友」
ということであり、高校生になって、雄二にも、
「普通の友達」
というのはできたが、それは、ただの、
「あいさつ程度の友達」
ということであった。
だから、
「大学生になった時、一度、友達が爆発的に増えたことがあったが、それは、こっちが望まずとも、勝手に友達になるというもので、
「高校生の間でも、同じことがあった」
というのだった。
本人は自覚はなかったのだが、
「医者の息子」
ということで、なぜか、まわりに人が寄ってきた。
一種の、
「腰ぎんちゃく」
というようなものであるが、その存在が、雄二には信じられないというもおであった。
というのは、
「自分が医者の息子」
ということで、放っておいても、まわりからちやほやされるという意識はあった。
いわゆる、
「親の七光り」
というものであった。
なるほど、
「親の七光り」
というものであれば、腰ぎんちゃくのようにしていれば、いくらでも、
「うまみというものを味わうことができる」
というものだ。
実際に、七光りというものを利用するということが、どれほど嫌なものかというのは、七光りを浴びたことがある人間でないと分からないことだろう。
怪しい薬
雄二の成績は、学校でもうなぎのぼりであった。
学校の先生も、
「志望校は、大丈夫でしょう」
といっていて、本人も、
「間違いないだろう」
という自信を深めていた。
高校に入った頃までは、
「あの学校は、、実質的に言って、無理だ」
と言われていた。
「ツーランクくらい下げないと難しいだろう」
と言われていたのだ。
中学の頃は、
「家庭教師」
というものをつけていた。
女性の家庭教師であったが、最初父親は、
「思春期のあの子に大丈夫でしょうか?」
といっていたが、
「実際に、異性に興味がない」
ということだったので、母親も、
「まあ、大丈夫でしょう」
と感じたのだ。
実際に、家庭教師に対しての興味はなかった。
性的な魅力がないわけではなかったのだが、本人が、
「女性という意識で見ていなかった」
ということだったのだ。
「この感覚だったら、小学生の頃の方が、女性というものに興味があったかも知れないな」
と思うほどだった。
それは、
「雄二が早熟だった」
ということではない。
それよりも、
「大人達が、雄二少年に対して、どこか、遠慮気味なところがあった」
ということであろう。
少年としては、若干早熟には見えたが、男性としてという感覚ではなかった。
ただ、雄二少年が、
「医者の息子」
ということで、まわりの女性は意識してしまった。
どうしても、まわりには、
「看護婦のお姉さん」
というのが、
「たくさんいる」
という感覚はぬぐえるものではない。
看護婦の方は、
「院長の息子」
ということで、どうしても、ひいき目に見てしまうだろう。
しかし、
「まだまだ子供」
という意識もあり、
「子供と思ってみてしまうと、余計に大人の男性を意識してしまう」
ということになるだろう。
だから、
「まわりの看護婦の方が、必要以上に意識する」
ということから、
「雄二少年は、子供の頃に、大人の女を意識する」
ということに、無意識に遠ざかってしまうのであった。
それが、
「友だちができない」
という要因であり、
「親友が一人だけできた」
というのも、その理由からであろう。
「恋人になる」
というのも、自分一人に対して相手が一人。
ということで、
「親友と、女性というものが、自分の中でシンクロした感じた」
ということなのかも知れない。
だから、中学時代も、高校時代も、
「思春期」
でありながら、
「異性というものに対しての意識があった」
というわけではないと、自分で証明ができると感じるのであった。
そして、高校生になると、
「異性に対して意識がなくなってきた」
という分、どこか、ストレスが溜まってきているのではないか?
と感じるようになってきた。
異性を意識していると。どうしても、身体が反応してくるのだが、反応自体は、
「中学時代からあった」
といってもいい。
だた、
「異性を感じるという思春期というものが分かっていなかったので、身体の変調が、どこからくるものなのか分からなかった」
だからこそ、
「好きな女性ができた時、本当に身体が反応するだろうか?」
と感じた。
よく、
「風俗ばかり利用している人は、風俗以外の女性を相手にした時、男としての機能が、役に立たなくなる」
という話を聞いたことがあったが、まさにそんな感覚を感じた。
「好きな人とセックスをするのが最高だ」
と思っているのに、実際には、その場面になると、身体が反応しないというものである。
これと似たもので、
「外国で活躍する選手を応援したくなる感覚」
というものがあるが、雄二は、
「そんなものはありえない」
と思っていた。
なんといっても、
「嫉妬や妬みが最初にくるので、自分が褒められたり、表彰されているわけでもないのに、人のために喜べるのはなぜなんだ?」
と考えていたからである。
その選手が活躍して、その後、
「最優秀選手賞」
などということで、表彰されるところが映像で写されるわけだが、それこそ、
「これ以上ない」
というくらいに、嬉しそうな表情をすることだろう。
「自分が表彰されれば、こんなにうれしいことはないだろう」
と思うことを、
「他人が受ける」
というのだ。
「どうして、それを自分が喜べるというのか?」
だから、以前は、
「試合の最後くらいまでは見ることはできるけど、表彰式などは、見たくない」
と思っていた。
何がうれしくて、
「人の表彰を喜ばなければいけない」
という考え方もあれば、
よく、
「地元の人が、パブリックビューイングで応援している」
という場面を映すが、
「選手の親」
ということであれば、誇りに思うということにもなるだろうが、
「友だちの息子が表彰を受ける」
ということで、あくまでも、自分の息子ではないといえるだろう。
そもそもが、
「選手の親だ」
ということで、ちやほやされるというのは、嬉しいことなのだろうか。
ひょっとすると、
「親が夢に見たこと」
だったのかも知れない。
「自分の夢を子供が叶えてくれた」
ということを、
「よしとする」
という人もいるだろうが、
「いくら息子とはいえ、自分が叶えているわけではないのだから、逆に、自分が叶えられないことを息子が叶えたとなると、息子に対しての嫉妬心というのが湧かないのだろうか?」
ということである。
そもそも、
「目標に対して成功する」
ということから、
「自分というものの成功を確認する」
ということで喜びに感じるのだろう。
しかし、
「これは、自分ではなく息子」
ということであれば、確かに、
「血のつながりがある」



