夢の連鎖の悪夢
ということで喜びということになるのだろうが、実際の競技であったり、競争するものであれば、そんなに簡単に割り切れるというものか。。
例えば、
「入学試験のようなものを親子で受けたとして、二人ともが合格すればいうことないのだが、息子が受かって、自分が落ちた」
ということになると、手放しに喜べるだろうか?
逆であれば、それこそ、
「二重の辛さ」
ということになるのだろうが、実際には、そこまではない。
それは、
「自分が合格した」
という事実があるからだ。
「息子が落ちた」
というのは、
「親としては辛いことだが、それにもまして、自分が合格した」
ということで、
「自分の努力が報われた」
といってもいいだろう。
だから、
「それだったら、二人とも落ちてしまった方がさっぱりする」
と考える人もいるのではないだろうか?
「いくら、親子とはいえ、人の幸福というものを、手放しで喜べるというのは、おかしなものだ」
と考えるのだった。
ただ、子供としては、
「どんなことをしてでも、合格したということを親に示さないといけない」
という気持ちにさせられる。
それが、
「親からの期待だったりもするからだ」
それが、
「プレッシャー」
というものになり、
「プレッシャー」
というものが、
「妬みや嫉妬」
というものの、
「隠れ蓑になるのではないか?」
と考えるのであった。
特に小学生時代というのは、
「家庭が裕福だったり、まわりに対して、立場がある」
と考える人は、
「まわりに対して、ひいき目に見られるということは、絶対的な立場の確立」
というものに、優先するということであった。
だから、
「教育ママ」
とまでいかないまでも、
「PTAの代表」
ということで、子供の世界でも、親が君臨するということもあったりする、
だから、
「子供がいじめに遭っている」
などというと、必要以上に敏感になるというのも無理もない。
そんな時、奥さんの、
「腰ぎんちゃく」
というものに収まっている人の子供が、実は、
「息子を虐めている」
ということになるかも知れない。
「息子を虐める」
と考えた時、本来であれば、
「PTAなどに入っていることで、その力を使って、子供を守る」
という親もいるだろう。
しかし、小学生くらいであれば、子供は、
「苛めを親に知られたくない」
と考えるようである。
というのは、
「苛めを親に知られると。子供の喧嘩に親が出てくる」
ということになり、
「苛めがさらにエスカレートする」
ということであったり、
「やはり、子供の喧嘩に親が出てくる」
ということが恥ずかしいと感じるのだろう。
「親の心、子知らず」
あるいは、
「この心、親知らず」
ということが、実際に交差している時期ではないか?
ということであった。
確かに、
「その二つが交錯するということは珍しいかも知れない、
ただ、それはないというわけではなく、お互いに、
「相手に知られたくない」
という思いからきているということであろう。
「小学生の頃、あんな大人になりたくない」
と、子供の頃に親を見てから感じることであろう。
というのは、
「あんな大人」
というのは、たとえば、
「親が理不尽に子供を叱り散らす」
ということがあったりした。
今の時代であれば、
「子供からの報復が怖い」
ということであったり、
「虐待扱いされてしまう」
ということで、まったく、
「子供を叱らない親」
というのが増えてきて、
「それが当たり前だ」
という時代になってきたことだろう。
しかし、子供の時には、
「あんな親にはなりたくない」
ということで、
「理不尽に子供を叱らないようにしよう」
と思っていたとしても、実際に、怒りがこみあげてくると、
「子供を叱る」
ということをしてしまうだろう。
「あれだけ子供の頃に感じたはずなのに」
と感じるはずなのに、実際には、無意識なのか、怒ってしまうのだ。
ただ、中には、
「子供を理不尽に叱らない親」
というのもいる。
そういう親は、
「自分が大人になった」
という意識がないのではないだろうか。
「大人になった」
という意識を持ってしまうと、自分が子供を叱らないということに対して、どこか罪悪感を抱くことになるだろう。
それが、一種の、
「罪悪感」
というもので、少なくとも、
「実子に対して抱くものではない」
ということになるに違いない。
それを感じると、
「大人になって、子供の頃の自分が、甘かった」
と感じたとすれば、それは、
「大人になるということから、逃げた」
という感覚になるのではないだろうか?
子供というものが、
「大人が苦手」
といっているとすれば、それは、
「親が苦手」
といっていることであり、
「自分が大人になれば、感じることになる」
ということであり、逆にいえば、
「大人にならなければ、感じることのない」
という、
「子供では感じることのできない感覚」
ということになり、
「自分が本当に大人になれるだろうか?」
と感じたとすると、
「大人というのは、自分で感じていることと違う発想が浮かんでくると、そこからが、大人だ」
といってもいいのだろう。
「思春期」
というものから、子供ではなくなり、
「成人した」
という時に、
「大人になった」
とすれば、
「幼虫から、さなぎになり、そこから成虫になる」
という、
「完全変態」
というものを描いているといってもいいだろう。
となると、
「人間でいう、さなぎの時期」
というものは、果たして、どのような時期なのか?
まりで、
「受験戦争にすべてをささげる時期」
ということになるのではないかといえるだろう。
虫がさなぎの間は、
「硬い殻に包まれて、じっと成虫になるのを待っている」
といってもいいだろう。
それが、
「子供が大人に成長する」
ということなのだろう。
「息子の雄二は、他人が表彰されたり、ちやほやされるということを、極端に嫌がる子供でした」
といったのは、父親だった。
医者をしていると、特に個人経営だと、住民の人たちとのつながりも深く、それが、子供としても、ちやほやされることにもなる。
「大先生の子供なんだから、いずれは病院を継いで、この街をずっと助けてくれることになる」
ということから、街の人は、子供の頃からちやほやする。
それこそ、
「皇太子」
といった感じであろうか。
他の少年とは違った待遇で、昭和の頃であれば、そういうのもあったのだろうが、時代が変わると、本来であれば、そんなこともない。
「医者の息子が医者を継ぐ」
などというのは当たり前だということになる。
それこそ、
「封建的だ」
といわれるかも知れないが、街の人は信じて疑わなかったし、実際に、雄二も、
「いつの頃までか分からないが、ハッキリと感じていたということであった。
そんな中で、看護婦も、
「坊ちゃん」
という呼び方をしていて、皆、ちやほやした。



