夢の連鎖の悪夢
実際に、その時代には、
「ギャグマンガ」
というものが、
「熱血根性マンガ」
というものと、双璧をなしていたといってもいい時代だっただろう。
それだけ、
「親のなしえなかった夢を、息子が叶える」
というシチュエーションが、もてはやされた時期だったのかも知れない。
今の時代であれば、
「親の夢のために、子供が犠牲になる」
というのが、当たり前という考えだったのかも知れない。
確かに、
「親の夢を子供に託す」
というのは、時代錯誤である。
特に、
「幼児虐待」
などと言われている時代、子供を特訓という名目で、昔でいうところの、
「しごき」
というものは、許されることではない。
それこそ、
「犯罪」
ということになる。
特に今は、部活であっても、ちょっとしたことで、
「虐待」
といわれる時代である。
昔であれば、
「うさぎ跳び」
など、どこでも行っていない。
また、昔から言われていたことで、実際には、
「都市伝説にすぎない」
といわれるのが、
「運動中は、水を飲んではいけない」
と言われたことである。
今であれば、
「熱中症対策」
ということで、
「水分補給は当たり前」
といわれるが、昭和の頃までは、
「決して水を飲んではいけない」
と言われていた。
これは、別に、
「虐待」
であったり、
「いじめ」
というものではない。
実際に言われていたのは、
「水を飲むとバテる」
ということからであった。
実際に水を飲んでから、、急激な運動をすると、胃や腸に負担がかかり、吐き気が襲ったりすることになるというものだ。
それを、
「バテるから」
ということで言われると、胃腸への負担を考えたところで、
「無理もないこと」
として、納得させられていたというものである。
実際に、
「親に果たせなかった夢がある」
ということであっても、それは、
「親の強要」
というものであってはならない。
あくまでも、
「子供が、自分のやりたいこと」
ということえなければ、子供の権利を、
「親という立場で奪ってもいいものか?」
ということになる。
これは、
「スポーツ選手」
であったり、
「政治家」
に限らず、
「昔から受け継いだ稼業」
というものを、今まで守ってきたところからすれば、
「どこでも、いえる問題だ」
ということになるだろう。
「跡継ぎ不在」
ということで、まるで、徳川時代の、
「お家取り潰し」
のようではないか?
今は、
「親子であろうが、人権が優先する」
ということで、
「跡取りが絶える」
ということも当たり前で、
「廃業」
というのも、仕方のないことなのであろう。
だが、時代はさかのぼり。まだ、
「親の夢を受け継ぐ」
という、
「殊勝な息子」
というのもいたようだ。
結局、その子がどこまで行けたのか?
そこが問題であった。
ある日のこと、
「高校生が電車に飛び込んだ」
という事件が起きた。
当然、人身事故ということで、
「調べが終わるまで、列車は、上り線下り線ともに運転見合わせ」
ということになった。
最近では、
「このあたりの人身事故は珍しくない」
ということであったが、
「自殺をしたのが高校生」
ということで、マスゴミも注目だった。
実際に遺書がなかったことから、
「事故や殺人の可能性もある」
ということで、司法解剖に回され、それによって、
「争った跡がない」
ということであったり。
「防犯カメラの映像」
というものを確認しても、
「誰かに突き飛ばされた」
ということでもなく、
「結構電車から離れて立っていた」
ということからも、
「事故とは思えない」
ということと、
「映像を見るかぎり、一度戸惑った後で、飛び込んでいるように見える」
ということから、
「自殺なのだろう」
ということになった。
もちろん、司法解剖で、怪しいところが出てきたというわけでもなく、
「自殺」
ということで、その裏付けを取るということに捜査方針は決まったのだった。
問題は、
「自殺」
ということであれば、その理由ということである。
学校に確認してみると、
「苛めのようなものはなかった」
ということであるが、
「どこまで信用できるか分からない」
ということから、いろいろな面から捜査されることになったが、
「クラス内で、いじめの事実はない」
ということで、
「苛めを裏付ける」
というものはなかった。
それが一番の理由であるが、ただ、どうしても気になるところというと、
「家が代々医者の家族で、自分の家を継がなければいけない」
ということに対して、少しストレスを感じていた。
ということであった。
しかし、まわりの証言から、
「最近は、医者の家督を継ぐということに、いやな気持ちはなくなってきた」
といっていたということであった。
実際に、成績が上がってきていて、学校の先生からも、
「よく頑張っている、このままなら、第一志望の医学部も十分に射程内だ」
と言われていて、本人も、自慢げに、まわりに話をしていた。
というくらいである。
そもそも、自慢げに話ができる人間だからこそ、
「自殺するようなことはない」
と考えている人もいたが、それも一部の人のことで、
「自殺ではない」
ということになると、
「誰かに殺された」
という考えも出てくるが、彼を殺そうとするような人はいない。
恨みなどを受ける理由もないし、
「彼を殺して、いったい誰が何の得になるというのか?」
ということであった。
「最近は成績が上がった」
ということを素直に喜んでいた。
という話も聞ければ、人によっては、
「成績が上がったことで、どこか不安に感じている」
という人もいた。
どうやら、この高校生は、
「楽しいことを相談する相手」
というものと、
「不安なことを相談する相手」
ということで、明確に分けていたようだった。
それだけ、相手を信頼しているというよりも、
「自分の目が狂わないように」
ということで、
「相談相手を明確に分けていたのだ」
ということであった。
他の人で、そんなことをする人はいないように思えた。
実際には、子供の頃には、
「友だちが一人だった」
ということで、
「どんな相談をするにも、その人だけだ」
ということであった。
確かに、小学生の頃などは、友達がいなかった。4年生の頃までは、友達がいなくて、相談相手がいないということから、孤独だと思っていたが、途中から、
「いないならいないでせいせいする」
というような発想になってきた。
「開き直り」
といってもいいだろうが、
友達がいないということで、一人できると、
「完全に親友」
ということになった。
親友というと、
「他の人には話せないことを話すことができる仲」
ということで、
「友だちは、親友一人でいいのではないか?」
と思うようになった。
特に
「友だちがいなくて、いやというほど孤独を味わった」
ということであるから、余計に、親友の大切さというものを感じるのだろう。



