夢の連鎖の悪夢
ということであろうが、
「海外に出ていく選手を応援する考えがあるのであれば、少なくとも、愛国心というものはある」
といえるわけで。それだけでも、
「海外選手を応援する」
という心境が信じられないといってもいいだろう。
確かに、時代が混沌としていたり、スポーツでも見ないとやっていられないなどということであれば、
「海外選手を応援して、気を紛らわせたい」
と感じることであろう。
さらに、
「自分にできないことを果たしてくれる」
という発想になるのだろうが、それもおかしな話になるのではないだろうか?
普通であれば、
「自分にできないことを達成してくれる」
ということになると、その場合、嫉妬心というものが湧いてくるものではないのだろうか。
確かに、そこで嫉妬心が湧けば、
「妬ましい考えを持つのは心が狭い」
といわれるかも知れない。
しかし、実際に、海外のスポーツ選手を応援する人は、その人たちを、
「国の誇り」
と思っているのかどうか、どうにも信用できない。
「だったら、もっと、愛国心というものがあっていいのではないか?」
と思うのだが、いくら、戦犯で処刑されたとはいえ、
「海外、特にアジアの国に配慮しないといけない」
とはいえ、
「国を憂いて、戦争を起こした人を、自国民が敬意を表しない」
ということはおかしいといえるのではないだろうか。
「戦争だったらダメで、スポーツだったらいい」
といいたいのだろうが、それこそ、
「お門違い」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「海外で活躍をしている人を応援している人のほとんど」
というのは、
「皆がお応援するから」
という、いわゆる、
「ミーハーなのではないか?」
と思えるのだ。
それ以上に、
「まわりが応援しているのだから、自分も応援しないと、まわりから相手にされなくなってしまう」
という、いわゆる、
「集団意識」
というものからきているのではないだろうか。
また、最近では少なくなってきたかも知れないが、まだ、一定の人たちの間では、当たり前のようになっている、いわゆる、
「家督相続」
といわれるもの。
例えば、医者であったり、政治家などがそうであろう。
特に、病院を持っているような人であれば、
「息子であったり、娘婿というのが、病院を継ぐのが当たり前」
と言われている。
大病院では難しいかも知れないが、会社組織であっても、
「病院が世襲で経営される」
ということは今でも結構ある。
そのかわり、よくサスペンス劇場で描かれる、
「遺産相続などの、ドロドロした関係が、裏に潜んでいる」
といってもいいだろう。
また、
「世襲」
という意味で、無視して通れないものとして、
「政治家」
というものがある。
「父親と同じ政治家に息子がなる」
というのは、結構あることで、今までのソーリなどを見ていると、そのほとんどが、
「世襲議員」
ということではないか。
つまりは、
「父親の地盤を息子が受け継ぐ」
というのが当たり前であり、それこそ、
「父親の夢を息子に託す」
ということでもあるだろう。
たまに、スポーツ選手の中にも、そういう人がいる、
それは昔からのことで、いわゆる、
「熱血根性スポーツもの」
というものを描く時は、
「父親の夢を息子に託す形で、子供の頃から、想像を絶するような特訓」
というものを行ったりして、それこそ、
「今ではありえないような大特訓をするということになる」
しかし、これも面白いもので、
「大人の、プロの選手でさえできないようなことを、まだ、小学生の子供が、まるで芸当のごとくにやってのける」
というシーンがあるが、
「よくも、それを見て、こんなのおかしいと誰も言わないのだろうか?」
ということである。
たとえば、
「木造家屋の壁にボールが通るくらいよりも少しだけ大きな穴が開いていて、そこの向川には、普通に木がある」
という状況があったとしよう。
「それを、まだ小学生の少年が、胡坐をかいて、穴に向かって、ボールを投げ、その穴を見事に通す」
としよう。
これくらいであれば、
「よほどの素質があって、練習を毎日のように重ねていれば、できるようになるだろう」
しかし、問題は、
「その穴を通り抜けたボールが木の幹に当たり、正確に跳ね返り、最初に通った穴をすり抜けて、こちにらに戻ってくる」
というものだ。
こなると、
「奇術師」
といっても無理であろう。
それこそ、
「魔法使い」
でもなければ、できるはずもないのである。
なんといっても、穴の向こうにあるのは、
「木の幹」
である。
これが、壁であれば、強引にこじつければできなくもないかも知れない。
なんといっても、
「円柱形」
ということなのだから、当たったとしても、正確に戻ってくるなど、精密機械でもなければできないだろう。
「いや、精密機械でも、何とかに一度成功する」
という程度ではないだろうか?
要するに、
「どの方向に跳ね返るか?」
というのは、
「天文学的数字による確率だ」
ということになるだろう。
さらにである、
「もう一度同じ穴を通る確率」
ということになると、今度は確率ということよりも、
「物理的に可能なのだろうか?」
ということである。
というのは、
「初速と終速が同じ」
ということでないとできる芸当ではないということだ。
なんといっても、地球には空気というものがあるのだ。
というのは、
「空気抵抗があるから、最初は勢いがあっても、途中から速度が落ちて、カーブを描くことになる。
ということなので、
「同じ軌道で返ってくる」
ということであれば、
「跳ね返りも物理的に穴を通すことは不可能ではない」
といえるかもしれないが、
実際に、蛇行を描くということであれば、跳ね返りで穴を通すのは、
「物理的に不可能だ」
といえるのではないだろうか?
それを、なんと、小学生の子供がやるのである。
「精密機械でも無理ではないか」
といわれることを、小学生の子供が、しかも、胡坐をかいて行うのだ。
しかも、一度も失敗せず、ずっと続けていけるなどできるわけはない。
少なくとも、
「初速と終速というものを、同じにしないと不可能だ」
といわれる芸当を行うのだ。
それこそ、
「魔法使い」
のようではないか。
当時の
「スポーツ根性マンガ」
というのは、そんな、
「常識外れ」
といわれるようなことが、普通に描かれていたのだ。
今では、
「懐かしのアニメ」
などといって、かつての、
「スポーツ根性マンガ」
というものを、あたかも、ギャグマンガのように映し、効果音でも、笑い声に包まれるというような演出をしているのであった。
でたらめであっても、
「熱血根性」
というテーマを大げさであっても、写し出そうと考えることは、その時代にはありだったということであろう。
その時代に、
「努力する」
ということに対しての目標というものが、
「どこまで達成できたのか?」
と考えてしまうだろう。
医者の息子



