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夢の連鎖の悪夢

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「何かがあった時、連鎖的に、自分が感じたことが、考え方や行動に影響してくるのではないか?」
 と感じるようになっていた。
 だから、
「親友となった雄二との関係」
 というのも、
「自分の中で見えない何かに操られてのこと」
 と感じた。
 だから、晴彦自信も、
「雄二のことを親友だ」
 と思うようになったのだ。
 そこで話を聞いてみると、
「父親が医者で、自分の去就について悩んでいる」
 ということを聞くと、
「俺と似たようなところがあるんだな」
 と思うようになり、晴彦とすれば、
「俺は連鎖を感じるようになったことで、人と絡むのであれば、相手のことが、よくわかる」
 というような相手になるはずだ。
 と感じるようになったのだった。
 だから、
「雄二が死んだ」
 と聞いた時、
「自殺しかないだろうな」
 と思ったのだ。
 確かに、他殺の可能性がゼロだとは思わなかった。
 殺人というものは、
「動機として、恨みなどの直接的なものだけとは限らない」
 と思ったからだ。
 というのは、
「誰かの犯罪を目撃してしまった」
 などということで、
「相手に狙われる」
 ということもあるはずだからである。
 それを考えると、
「ゼロかそれ以外の可能性なのか?」
 あるいは、
「百か、それ以外のパターンなのか?」
 ということが考えられる。
 それが、
「一般的な他の人のような関係」
 というものと、
「親友としての自分たちの関係」
 ということの違いとなるのではないか?
 と考えるのであった。

                 大団円

 実際に、この二人の関係は、後者である、
「百か、それ以外」
 ということになるのであろう。
「厳しい関係」
 ともいえるが、それだけ、お互いに考えがリンクしているのであり、
「すべてが、かみ合わないと、すぐに壊れてしまう」
 という、
「一見鋼のような関係に見えるかも知れないが、実際には、いつ瓦解するか分からない」
 という関係なのかも知れない。
 それだけに、
「きずなの強さというものが、いかに二人の関係に影響してくるか?」
 ということであり、
「見えないものが少しでもあれば、先が見えているだけに、お互いに、破局を迎えるタイミングも分かる」
 というものであろう。
 それを考えた時。
「人間の関係性は、複数であればあるほど、強いのかも知れないが、本当の強さはない」
 ということで、
「ゼロか、それ以外か」
 ということでいけば、
「それ以外の中に、百というものはない」
 ということで、逆に、
「俺たちの親友としての関係」
 というのは、
「ゼロというものはない」
 ともいえるだろう。

となると、
「破局を迎えたとしても、ゼロではない」
 ということから、お互いに引き合うものが残っていることから、
「いつだって修復は可能」
 ということになる。
 しかし、晴彦としては、
「修復しようにも、雄二はもう死んでしまっているではないか」:
 と考えると、そこから発展させた考えで、
「なんだ。元々一人だったことを思えば、あの時に戻ればいいんだ」
 と考えたのだ。
 ただ、
「あの時に戻ったとしても、自分は、すでに、時を過ごした」
 ということで、
「意識している父親というのは、すでに、こちらのことを、何やら恨んでいる」
 ということは分かっていたつもりだったが、
「雄二が死んだ」
 ということで、自分が父親に感じていた、
「親子関係を示す」
 というような意識がなくなったのだ。
 他の人には、
「そんな力はない」
 ということであった。
 二人の関係は、
「ただの親友」
 というだけのことなのだろうか?
 ただ、
「他の人が、考えるような、親子関係であったり、国家の代表」
 などという発想が、
「自分たちには信じられない」
 という考えで結びついているのは事実だ。
 もちろん、
「それだけではない」
 ということになるのだろうが、それ以上に、
「誰かの夢を自分が果たす」
 ということの理不尽さであったり、
「自分の名誉でもないのに、いくら親子だったり、近所の人だ」
 ということで、まるで、
「地元の英雄」
 といってもてはやすというのは、どうなのだろう?
 確かに、その人を見て、
「じゃあ、俺も頑張って」
 とばかりに、
「はっぱをかけられた」
 というのであれば、まだ、
「百歩譲って、考えられなくもない」
 といえるだろう。
 しかし、実際には、
「誰もそんなことを考えようとしない」
 つまりは、
「自分にできないことだからこそ、夢に託す」
 ということであり、そもそも、
「夢というのは、達成することに意義がある」
 という人がほとんどだろうが、果たしてどうなのだろう?
「夢は持つことに意義がある」
 といってもいいだろう。
 夢というのは、
「目標を持つこと」
 と同意語だといってもいいだろう、
「持った目標を達成してしまえば、じゃあ、次は何を目標にすればいいというのか?」
 ということである。
 これが、プロスポーツの選手で、
「毎年のリーグ戦」
 ということであれば、毎年、目標があるだろう。
 優勝すれば、その継続もあるだろうし、それこそ、海外に出る」
 ということもできる。
 しかし、
「オリンピックで、金メダル」
 というものだけを目標にしてくれば、達成した時点で、後はどうするか?
 ということである。
 確かに、
「次のオリンピックでも金メダルを」
 という目標がないとはいえないが、なんといっても、
「4年に一度」
 つまりは、
「10年の間には、2回しかチャンスがない」
 ということになる。
 今から思えば、
「郡司光彦」
 という男もそれを、無意識に分かっていたということではないだろうか?
 つまり、
「オリンピックに出場しても、その先にいかに目標を持てばいいか?」
 ということで、無意識のうちに、オリンピックに出場機会の大事な時に、
「実力が発揮できない」
 ということだったのかも知れない。
 別に、
「臆病」
 ということではないのだろうが、どちらかというと、
「他の人には見えない先見の明を持っていて、そこに、先が見えるだけに、その人特有の臆病さというものが顔を出すことで、別の意味で実力を発揮できない」
 という発想だったのだろう。
 それを思えば、
「親が息子をなぜ、殺さなければならない」
 ということになったとして、その理由を分かる人はいないだろう。
「せっかく、親のなしえなかった目標を達成しようとしてくれている息子を殺すなんて」
 と思うに違いない。
 そして、そこから導かれる考え方というのは、
「息子は、親の目標を達成するというプレッシャーに負けて、父親と言い争いになったのかも知れない」
 ということから、
「お互いに言い争いが、喧嘩のようになり、最後には、不可抗力に近い形で、父親が息子を殺す羽目になった」
 という、まるで、
「不慮の事故ではないか?」
 と思えることになったかのように感じることだろう。
 しかし、実際には、
「明らかに息子を殺したのは、父親」
 ということで、
「計画的な犯罪だ」
 といえるだろう。
作品名:夢の連鎖の悪夢 作家名:森本晃次