夢の連鎖の悪夢
ということであるが、
「それはあくまでも、怪しい薬」
というものの存在だけからのものである。
「状況証拠は、あくまでも、自殺なんだ」
と考えると、
「そもそも、その怪しい薬の正体は何なのか?」
とその時は分かっていなかったので、
「自殺、他殺」
の両面からの捜査となっても、
「結局は、カギを握るのは、その怪しい薬」
ということになるのだ。
そもそも、
「その怪しい薬って、そう簡単に手に入るものなのだろうか?」
ということであって、
「誰が手に入れたのか?」
ということで、
「自殺か、他殺か?」
ということがある程度分かるということになるだろう。
結果的には、
「高校生である息子が手に入れた」
ということであり、それを手助けした看護婦がいたということであった。
高校生のわりに、
「大人のオーラがある」
という話は聞かされていたが、さすがに、
「子供の頃からのオーラだ」
とは思っていなかっただろう。
実際に、
「薬を持ち出した看護婦」
というのは、
「死んだ雄二青年」
というものの、オーラに対し、それこそ、
「浸水しきっていた」
といってもいいだろう。
彼女は、雄二青年のことを、
「カルト宗教の教祖」
のように慕っていた。
実際に、彼女のような、
「教祖と崇めるかのような女性は数人いて、彼女でなければ、他の人が協力した」
といってもいいだろう。
だからといって、この計画に雄二青年は、一人だけしか巻き込んでいない。
理由としては、
「巻き込んだ人に、他に巻き込んでいる人がいる」
ということを分からせてしまうと、
「我に返って、もう協力が望めない」
ということであった。
まだ計画前ということであれば、
「他の女を」
ということもできるのだろうが、途中でバレるということになると、取り返しがつかない。
だとすれば、
「一人だけを巻き込む方が、成功の可能性は高い」
ということであった。
雄二青年とすれば、
「絶対成功」
とまでは思っていなかった。
もし、誰かに見つかって計画が頓挫すれば、
「それはそれで仕方がない」
ということであったが、そのかわり、
「自分のミスによっての計画のとん挫」
というのは、自分の中で、
「ありえないことだ」
と感じているのであった。
というのも、
「あくまでも、計画を立てたのは自分であり、この計画に対して、邪魔立ては許されない」
ということであり、
「自分が、途中で辞めると思えば、それはそれで、無理もないこと」
という、大それた計画を立てるにしては、本来、絶対に必要だとされる、
「覚悟」
というものがないと考えられる。
しかし、雄二青年の中には、
「覚悟というものは、本来出せる場面の、その一時に掛ける」
というものだと考えていたのであった。
だから、
「自殺」
ということであれば、
「自殺の瞬間」
というものにだけ集中するということである。
だから、そのための準備段階では、覚悟や集中というものは、
「できるだけしないようにしよう」
と考える。
だから、
「覚悟や集中ができていなかった」
ということで、途中で計画が頓挫してしまうということがあれば、その時は、潔く、
「計画を中止する」
と考えていた。
その計画を、
「また別の機会で」
という考えもあるが、一応は、
「白紙に戻す」
と考えている。
それこそ、
「死ぬ勇気なんて、そう何度も持てるものではない」
というのが理由だった。
特に今回の自殺において、実は、
「自分でも、自殺をしようと考えた理由がよく分からない」
ということであった。
それこそ、
「そんな曖昧な理由で自殺など考えるのはおかしい」
ということになるだろう。
自分が他人でも、
「絶対にそう思うだろう」
と感じるのだが、
「結局は、本人にしか分からないこと」
ということで、覚悟を決めたとしても、
「本当に、その時になって、自殺しきることができるのか?」
と考えるが、へたに死にきれなかった時を考えると、
「これほど怖いことはない」
といえるだろう。
そして、
「今回の事件において、協力者が一人だ」
というのは、
「中学時代のトラウマ」
からきているのかも知れない。
「友達がいなくて、一人孤独だった」
ということで、自分の中で、
「孤独というものを、自分の中で究極まで味わった中で、やっとできたのが、たった一人であるが、一人であるがゆえに、親友となりえた」
という人がいたからだ。
これが、
「いい意味でも、悪い意味でも、自分の中で、トラウマとなった」
ということである。
だから、
「自分が何かをしようと考えた時、多すぎてはダメだ」
ということで、
「もちろん、少なくてもダメなのだ」
ということであるが、
「では、何人がいいのか?」
ということになると、
「結局は、自分合わせての二人」
ということになるのであった。
自分に、
「オーラがある」
という自覚があり、
「いつでも、自分には、協力者ができる」
という自負もあった。
だから、
「何かをするとき、巻き込むことになるが、その巻き込み方もどこまで巻き込んでみいいのか?」
ということを考えたこともあったが、
「その時にならないと分からない」
というのが結論であった。
それは当たり前のことであり、
「事情が変われば、まったく違った状況であり、それによって、協力者も変わってくる」
ということを考えれば、
「臨機応変な対応」
ということになるだろう。
それを考えると、
「一番肝心な時に、いかに力を発揮できるか?」
ということの大切さというものを感じていたのだろう。
雄二は、そんなことを考えながら、死んでいったのであった。
そんな雄二の考え方というものを、
「継承している」
という人がいた。
その人は、名前を、
「郡司晴彦」
といった。
彼は、実は、
「雄二の親友」
だったのだ。
中学時代に、たった一人で、孤独と戦っていた雄二に声を掛け、そこから親友として君臨してきた男だった。
雄二が、
「親友」
として選んだことで、ずっと、
「雄二の親友」
として君臨してきた。
だから、
「雄二が考えていることは、手に取るように分かっている」
ということであった。
だから、
「雄二は自殺をしたんだ」
ということで、それを知っているのは、
「本人である雄二と、もう一人、協力者である看護婦だけ」
ということになるだろう。
しかし、もう一人いたわけで、それが、
「晴彦」
だったのだ。
親友ということで、いつも気にしていることから、
「手に取るように、その心境まで分かっていた」
ということである。
「だったら、どうして止めないんだ」
と、このことを知っている人がいえば、
「必ずそういうだろう」
しかし、実際には、そんなことはしなかった。
他の人からみれば、
「ただの他人事」
ということであり、
「自殺しようとしている人は、絶対に止めなければいけない」
という固定観念に凝り固まっている人であろう。
「他人」



