二階級特進
という人もいたが、しかし、実際には、交際期間も、それに負けず劣らずということであった。
「交際を始めてから、早4年。まだ結婚の話も出ていない」
というのは、まわりが見ると、
「長すぎた春になるのではないか?」
ということが言われていたのだ。
「友達機関が長いと、あっという間に結婚してしまうのではないか?」
と思う人は結構いるようで、実際には、今村記者も、
「交際を始めたのだから、結婚までにはそんなに時間はかからない」
と感じていた。
まるで他人事のようだが、
「交際を始めた」
といっても、それは、まわりに対して、
「付き合っている」
ということを公表しただけという感覚で、実際には、
「今までと変わらない」
と思っていたのだ。
ただ、
「友だちの間に、肉体関係になるということはなかった」
というもので、それが、
「友だちとしての礼儀だ」
と思っていた。
それが、結婚してから初めて身体を合わせたわけだが、それこそ、昭和の時代までの、
「結婚するまで、清い身体で」
という、
「古臭い考え」
というものと似ているといってもいいだろう。
結婚するまでどれくらいかかるのか、二人には、そのあたりの展望は実際には見えていないようだった。
しかし、
「結婚できないかも知れない」
と感じていたのは坂巻記者の方のようで、
「女性は、こういう勘が働くのかしら?」
と感じていたのであった。
秘密裡
「鎖国の街」
と言われていた有明村では、夏は早朝、靄が掛かっていることが多かった。
しかも、その中心部にある、別荘地となっている湖畔への入り口は、歩きにくいと言われているので、なかなか、別荘に住んでいる人も、走行散歩はあまりしなかったのだ。
しかし、中には、
「長靴を履けばいいじゃないか」
ということで、毎日の日課としている人がいた。
その人は、元々は、都心部で手広く事業を展開しているグループ会社会長だった。
5年前に、会社を息子に任せて、自分は会長職に収まることで、
「たまに、グループ会社を視察する」
という程度で、会社の経営からは、完全に身を引いていた。
ここの別荘は、まだ自分が社長職をしている時から、
「引退したら、ここで、別荘を買って、悠々自適に暮らすんだ」
と考えていたようだ。
息子たちからすれば、
「もっと贅沢をしてもいいのに」
と思っていたようだが、
「これが私の贅沢だ」
と、考えるようになったようで、そもそも、若い頃は、もっととてつもない夢を見ていたことが、恥ずかしいくらいだったという。
それも、50歳を過ぎたくらいから、
「リアルな人生設計」
というものを感じるようになっていったのだろう。
「別荘での悠々自適」
というのは、確かに夢としては、小さいようだった。
一代で、今の会社を興し、ここまで来たのだ。
時代は、ちょうどバブルの頃で、ベンチャー企業ということで、仲間数人で始めた会社だったのだが、そこで、
「特許となる」
というものを開発したことが、飛躍の第一歩だった。
そこから、とんとん拍子に会社は飛躍していく。
「バブル崩壊」
の時期でも、
「100社あれば、99社までが倒産の危機」
と言われた時代だったが、もう一社というのは、
「成長の余地がある会社」
ということで、
「破滅か成長か?」
という、どちらかの時代だったと彼は言う。
「自分は、成長の方に乗れただけだ」
と謙遜するが、実際にはそれだけ、
「先見の明」
というものと、
「潔さ」
というものが、うまくかみ合ったということからであろう。
特に、
「潔さ」
ということで、
「ダメなものはダメ」
ということで、危険なものをあっさりと切り離すだけの覚悟と、信念があったことが、「彼の会社を急成長させた力だ」
ということである。
「会社というものは、いかに、うまくいかせようか?」
ということばかり考えていると、無理が来るというもので、
「いかに、どこで諦めるか」
ということを見極める力が大切だと思ってここまで来たのである。
そういう意味で、社長室には、直筆で、
「人生諦めが肝心」
と書かれた額が飾ってあるが、
「会議室などで飾って、全社員の教訓とする」
というのが、いわゆる、
「社訓」
というものであろうが、彼は、
「社訓ということではあるが、他人に強制はしない」
と思っていたのだ。
なんといっても、この言葉は、解釈のしようで、まったく違う考えが生まれてくるというもので、
「これが俺の考え方だ」
ということから、逆に、
「人それぞれの個性という考え方があり、それは、個々で自覚しないと意味のないことになるのだ」
と考えているからであった。
だから、
「彼の考え方」
というのは、肉親である家族にも、
「きっと分からないだろう」
と思っていた。
なんといっても、
「会社社長」
というお城の中で育った環境では、
「自分と同じ考え方が生まれるなどありえない」
ということになるからであった。
有明村というところは、元々、会長の会社が、最初開発予定としていた。
会長の会社は、
「川崎グループ」
と呼ばれる会社で、
「子会社をたくさん持っているのだが、そのほとんどは、バブル時期に、合併した会社だった」
「ライバル会社を潰すよりも、吸収合併することで、お互いに利益を出す」
という考えと、
「親会社になっておけば、会社が実際に危なくなった時、子会社として切り捨てることができる」
という保険の意味での合併と考えられていた。
実際に、そのメリットに対して最初の頃に自覚していた川崎は、いち早く、
「吸収合併」
を進めたのだ。
しかも、
「吸収合併でなければだめだ」
という厳しい考えを持っていて、他の会社が、
「対等合併でないと、この時代を乗り切っていけない」
と考えていることに対して、真っ向から対立する体制となっていたのだ。
当時の川崎氏は、
「時代の先の先」
というものを読んでいた。
その時代には、すでに、
「バブル崩壊後の復興した社会」
というものをイメージしていた。
ということは、誰にも口外はしなかったが、
「バブルの崩壊」
というものも予期していたといってもいいだろう。
もっとも、彼に言わせると、
「バブルの崩壊を予期はできたのではないか?」
とまるで他人事のように話をしていたが、それも、
「決して、無駄に敵を作らない川崎氏の信念」
ということを考えれば、ありえることであった。
そういう意味で、実は、川崎氏の会社が、バブル崩壊を持ちこたえられたのは、
「まだまだ小さい会社」
ということであったが、その時、彼は、
「徹底的な経費節減」
というものを行っていた。
しかも、それを、
「まわりに知られないようにしていた」
ということが、彼の天才的な発想を意味していたのだ。
「周りに知られないようにする」
というのは、そこまで難しいことではなかった。
なぜなら、
「誰もが、経費節減などありえない」
と考えていた時代なので、
「誰が気づくか?」



