生き残りへのいたちごっこ
「これらの、行き過ぎたやり方」
というのは、
「三すくみ」
であったり、
「三つ巴」
というものに何か関係があるのではないか?
ということである。
しかも、今回の事件が、
「昭和時代における、似たような事件の、模倣ではないか?」
と思えるところに、
「何か、事件を引き起こさなければいけない理由」
というものが存在するのではないか?
ということであった。
実際に、今回の事件において、
「第二段階ということで、薬物混入におる無差別殺人というものを画策している」
と思わせるとことであった。
そもそも、
「薬物による無差別殺人」
というものに、どういうメリットがあるというのか。
もちろん、
「無差別殺人」
ということになると、
「社会不安が限りない」
ということになり、
「社会が大パニックになる」
ということは必死である。
実際に、
「青酸コーラ事件」
というものがあった時、ニュースでも、毎日のように報道され、
「まるで、無差別テロ」
という状況を呈していた。
「社会全体に恨みがあるのか」
それとも、
「一企業に対しての恨みからの犯行か?」
ということで、どちらにしても、
「完全な逆恨み」
ということから、
「異常性格者」
あるいは、
「精神異常者」
による犯行ということで、
「時代は、いよいよハルマゲドン」
といわれるようになっていた。
いわゆる。
「世紀末的犯罪」
ということで、いかにも、
「世紀末に起こった事件に、似たような無差別テロ」
というものがあった。
それは、
「新興宗教団体」
というものによる、本当の無差別テロであり、
「それこそ、電車内で、毒ガスを撒く」
というテロ行動であった。
「青酸コーラ事件」
というもの、同じものであっただろうが、
「世紀末のテロ組織」
とは違ったのだろう。
実際に犯人は分からずじまいで、しかも、途中から、模倣犯と思える事件が多発したことで、
「本来の犯罪」
というものが分からなくなってしまったことで、その動機も曖昧だったのだ。
しかし、
「宗教団体のテロ行為」
というのは、その動機が、
「自分たちの他の悪事をごまかすための、時間稼ぎ」
というようなものだったと言われているだけに、
「その動機さえ分かれば、犯人グループというのは、必然的に分かる」
というものである。
つまり、
「動機がハッキリすれば、犯人も分かり。犯人が分かれば、動機もハッキリする」
ということで、
「犯罪における犯人と動機というものは、切っても切り離せない」
といえるだろう。
だから、
「犯人が分からないようにしよう」
と考えるのであれば、犯罪をごまかすというよりも、
「動機をごまかす」
ということの方が、よほど重要ではないか?
と考えられる。
大団円
今回の事件では、そもそもが、
「昭和の事件を彷彿させる」
ということから、あくまでも、
「昔の事件と関係があるかのごとく」
と考えられているが、実はそうではない。
どちらかというと、
「昔の事件の要因が、どこにあるのか?」
ということから始まっている
といってもいいだろう。
実際に、誘拐された人の記憶が、
「欠落している」
であったり、あるいは、
「改ざんされている」
というのは、実は、
「誘拐した人間の頭の記憶を調べる」
ということが、本当の目的であった。
だから、
「身代金の要求」
というものもなかったし、
「被害者に、気概を加える」
ということもなかった。
もちろん、
「被害者が、実際に、昭和の事件で、何らかの役目を負っていた」
ということは事実だということを突き止めたことで、
「その子供を誘拐することで、家族の過去の記憶をよみがえらせる」
ということが目的でもあった。
ただ、親が、当時のバブルを予見した学者だった。
ということ、
このことが、誘拐に結びついてしまったということは、人道的に許されることなのかどうかは難しいところである。
犯人が、いかに、
「世の中を呪っているか?」
ということが分かるというもので、
「実際に、犯人グループであるこの組織だけが、過去のバブルの悲劇がいかにして起こったのか?」
ということを分かっていたからであった。
「いや、分かっているかも知れないが、保身に走るということで、自分の身を守るためには、黙して語らず」
ということで、結局、
「時代は同じことを繰り返す」
ということになるのだ。
それを彼らは分かっているだけに、
「二度と同じことは起こさせない」
と感じた。
時代は変わっても、人間が変わっていない以上、同じことが繰り返され、今度は、
「30年なのか?」
あるいは、
「20年なのか?」
その周期は誰にも分からない。
今の時代は、
「これくらいなら大丈夫だ」
と考えてしまえば、結局、取り返しのつかないことになるだけだ。
といえるだろう。
それが、今の時代の、
「少子高齢化時代」
と呼ばれることから波及する、
「年金問題の破綻」
をはじめとして、取り返しのつかないということになるのだ。
しかも、
「自然破壊」
などというのは、もう、どうすることもできない。
「気温が35度などという、ありえない気温が記録された」
などといって、びっくりしていたのは、今から、30年くらい前のことではないか。
「昭和の終わり頃」
というと、まだまだ、クーラーが普及されている家も少なく、電車でも、
「冷房車」
と呼ばれる車両が、
「数両に一つくらいある」
という程度だったではないか。
それを考えると、今は、
「体温よりもはるかに高い最高気温」
ということで、なんといっても、
「最低気温が、30度を下回らない」
という状況で、最高気温が、
「40度を超える」
というのが当たり前という時代に入った。
これは、それまで、
「地球温暖化」
などと言われていた予測をはるかに上回るくらいで、今は、
「地球沸騰化」
とまで言われている時代になってきたのだ。
それを考えると、
確かに、
「持続可能な開発目標」
などといっているが、実際には、
「あと、数十年も経てば、人が住めなくなる」
という時代が来るに違いない。
そもそも、今でも、
「外出禁止令」
というものが発せられても不思議がないといってもいいだろう。
実際に、
「あれは確か、昭和末期の頃だったか」
映画館で、見た映画の中で、
「どこの国だったか、大都市の街で、気温が40度に達した」
ということで、
「外出禁止命令」
というものが出たことで、
「経済はまったく回らなくなり、それが、社会の崩壊を招く」
というような内容ではなかったか。
今の時代であれば、
「今がその時代なんだ」
ということで、
「過去の予想が当たった」
ということになるのだろうが、昔の映画ということで、たぶんは、
「フィクション」
ということで描かれた作品だっただろう。
もちろん、
「数百年後」
というくらいの感覚だったかも知れないが、
作品名:生き残りへのいたちごっこ 作家名:森本晃次



