生き残りへのいたちごっこ
「ちょっとの間で、まったく情勢が違うという、激動の時代だった」
といってもいいかも知れない。
ただ、その時代は、今の時代とは違って、
「君主や、国家の考え方に、一本筋の通ったものがあった」
という時代であった。
特に、
「大日本帝国」
と呼ばれた時代においては、そもそも、徳川幕府が潰れ、明治新政府になった時期から、
「大東亜戦争においての敗戦」
というものにつながるまでの、年代が、
「大体80年くらいだった」
ということを思えば、
「大東亜戦争に敗れ、今の令和の時代」
というのも、
「ちょうど、80年くらい」
ということになる。
「時代が大きく変換する」
というのは、
「時間の長さだけ」
というわけではないだろうが、少なくとも、そこには、
「目に見えない因縁」
というものが孕んでいるといってもいいだろう。
もちろん、今の時代が、
「歴史の分岐点」
ということで、どういう時代になっているのか?
というのは、ハッキリと分かるものではない。
ただ、時代の流れというのは、
「途中の分岐点が決まっていて、それを、支点と考えるならば、それを支えるための、もう一つの点というのが、どこに存在しているか?」
ということ、
さらには、
「途中の分岐点を探るために、力点となる部分を探す」
ということにおいて、
「どちらにしても、作用点というものがどこにあるか?」
ということにかかっている。
つまりは、
「秤というものを考えた時、支点、力点、作用点と、三つが存在する」
ということを考えると、
「三つということが、何か大きな意味を持っているのではないか?」
と思うのだ。
その三つという考え方であれば、
「三つの点を結ぶ」
という考え方には、いくつもの不思議なことであったり、
「力の均衡」
もっといえば、
「抑止力」
というものが働くと考えられるではないか。
その一つとして、
「三すくみ」
というものと、
「三つ巴」
というものが考えられる。
「三つ巴」
というと、三つの点が、それぞれに、均等に配置されており、それぞれの力が、まったく同じ方向に働いていて、力関係も、
「すべてにおいて、同じ」
ということになる。
だから、なかなか、
「甲乙つけがたい」
ということで、最後には、この三つで競い合うということになる。
その際に、
「巴戦」
というのが行われるが、その決着方法としては、
「総当たり戦において、先に連勝した場合」
ということに限られるというのだ。
つまり、連勝しなければ、
「2勝する」
ということができない・
そういう意味で、
「巴戦を制するのは難しい」
と言われ、しかも、
「力が均衡している」
ということなので、実際には、
「その時の体調」
であったり、
「運というものも大きく影響してくる」
というものだ。
そういう意味で、
「巴戦を制する」
というのは、本当の意味での力がなければ務まらないといえるのではないだろうか。
だから、
「たとえ負けた」
とはいえ、巴戦で敗北した人も、その力は甲乙つけがたいということで、
「三つ巴で勝ち進んだ人間以外も、その力が認められてしかるべき」
といえるであろう。
「三すくみ」
というものは、少し違っている。
「こちらは、
「個々の力というものによるもの」
というわけではなく、
「力が均衡している状態」
のことをいうのだ。
つまり、
「力による抑止」
といってもいいだろう。
本来であれば、それぞれの敵対するものに対して、皆が、
「強者であり、弱者」
ということになるのだ。
世の中というのは、
「弱肉強食」
と言われていて、それが、
「当たり前のことだ」
ということになっているが、
「世の中には、すべてが弱肉強食ではなく、抑止力が働くことで、和が保たれている」
ということもあるということだ。
「つまりは、三つの力が均衡している」
ということで、
「どれか一つが動けば、力の均衡は失われ、最後には、一人勝ちする」
ということになるというのだ。
しかも、最後に残るというものは、
「最後まで動かなかった」
というものである。
もし、
「自分に対して強いものが襲ってくれば、時間的にひとたまりもない」
ということになるだろう。
だから、作戦としては、自分が圧倒的な強さを示す相手に対して、揺さぶりをかけるという意味で、
「襲い掛かるふりをすれば、相手は、たまらずに、押し出されることになり、食われることを思えばということで、相手を滅ぼそうとするだろう」
というのが、作戦である。
相手は、
「結局自分に対して強い相手を滅ぼしてくれる」
ということで、今度は、自分が襲われる前に、結局は、残ったものは、
「自分よりも圧倒的に弱い相手」
ということで、後は、
「ゆっくりと、料理すればいい」
ということで、
「生き残りは自分だけ」
という、
「一人勝ちになる」
ということになる。
しかし、本当にそうであろうか?
「そもそも、動いてしまうと、生き残るのは自分だけ」
ということになるだろう。
しかし、逆に考えれば、
「もし、自分以外が滅んでしまうと、今度は自分の食料がない」
という考えになり、結局は、死に絶えるしかない」
ということだ。
だが、
「三すくみの状態」
というのは、そもそもが、
「食糧のない状態」
ということで、結局、
「何も動かなくても、最後には食料がなくなり、息絶えることになる」
といえるだろう。
ものは考え方だが、
「最初に食われてしまう」
という方が、
「餓死で苦しみながら死ぬ」
ということとどちらがいいか?
という理屈で考えると、
「三すくみ」
というのは、
「これほど恐ろしいものはない」
といえるかも知れない。
今回の事件において、
「犯人からは、被害者に脅迫状」
というものが送られた。
普通で考えれば当たり前の行動であるが、その脅迫状というのも、まるで、
「昭和レトロ」
というものを思わせる。
また、もっとおかしなことは、
「被害者から雇われた探偵が、犯人に対して、挑戦状を出す」
というものだった。
こちらも、戦前戦後の、探偵小説」
といえるものにはあったが、あくまでも、
「サスペンスタッチの小説」
くらいにしか見えないもので、
「実に現実味を欠いたものだ」
といえるのではないだろうか?
今回の事件において、
「これこそ、三つの点が、均等に置かれている状況」
といえるのではないかと思うと、
「三つ巴」
というか、
「三すくみ」
のような関係ではないかと考えられるのであった。
実際に、今回の事件で、
「不思議なこと」
というのは、結構ある。
「犯人は、人質を簡単に釈放する」
という手段に出たが、
「記憶が欠落」
していたり、
「記憶が改ざんされている」
ということであるが、
「釈放しても大丈夫なように、策を弄していたはずなのに、何をそんな厳重に、記憶の改ざんや、欠落までする必要があったのか?」
ということである。
考えすぎかも知れないが、
作品名:生き残りへのいたちごっこ 作家名:森本晃次



