生き残りへのいたちごっこ
というわけでもなく、もっといえば、
「現実から、あまりにもかけ離れていると、リアルさがないことで、現実の犯罪には、不適当」
ということで、
「そもそもの犯罪計画がうまくいくわけはない」
ということだ。
「事実は小説よりも奇なり」
という言葉があるが、それも、実は、
「現実は」
という言葉を使っていないということも、そこには、
「事実というものと、現実というものの違い」
ということを考えてのことになるのであろう。
ただ、
「事実というのは、現実あってこその事実だ」
と考えれば、
「現実に起こった犯罪は、これから起こるであろう犯罪に対しての、模倣である」
といってもいいだろう。
この時の、
「誘拐事件」
というものも、
「小説にすれば、面白いものが書けるかも知れない」
といえる。
それだけ、
「現実であれば、ありえない」
という考えが実際に起こっているからである。
「想像力が豊かな小説」
というものであっても、実際には、よほどの想像力がなければ、結局は、
「可視化された犯罪」
というものの域を出ることはないのではないだろうか?
というのは、
「リアルな犯罪が、成功しない」
ということと、
「小説のような奇抜な犯罪がリアルにはない」
ということは、結局、想像力において、
「可視化できる部分以外を計画できるだけの頭はなかなかない」
と考えられる。
そうなると、
「映像化できない」
と考えられる小説が、本当の意味での、
「探偵小説」
ということであり、さらに、
「可視化した」
としても、
「読んでから見ると、実につまらない」
と思わせる小説の方が、
「素晴らしい小説だ」
ということの証明だといえるだろう。
「それくらいのことは分かっている」
という人もいるだろうが、それを理論的に説明できる人はなかなかいない。
それだけ、
「探偵小説というのは、奥が深い」
といえるのではないだろうか?
そこが、
「現実と事実の違い」
というものであり、
「小説とリアルの違い」
といってもいいのではないだろうか?
混入
昭和末期にあった事件と、今回の事件が類似しているということで、
「まず、誘拐事件というものが起こった」
ということであり、昭和の頃も、理由や経緯はハッキリと覚えていないが、
「犯人は、人質を無事に解放した」
というところまでは、同じだったといってもいいだろう。
そして、今回の事件が、
「過去の事件の模倣だ」
といわれるようになったのは、これから以降の、事件経過というものを見ていると、分かるというものであった。
というのも、前回の事件も、今回の令和に起こった事件というのも、
「誘拐事件」
ということだけで終わらなかったのだ。
もっとも、
「誘拐」
というものに関しては、
「身代金」
というものを相手が、奪取していないということから、一見、
「犯罪未遂」
ということであり、しかも、
「人質が、無事に帰ってきた」
ということから、
「犯人は、計画は失敗したかも知れないが、捕まらないということに関しては、成功した」
といえるのではないだろうか。
今回の計画も、
「昭和末期」
の犯罪も、
「二重三重に計画された犯罪だ」
といってもいいだろう。
しかし、誘拐事件の時には、気づかなかったが、
「その後の犯行」
というものが起こった時、
「昭和の事件」
を知っている人は、
「あの事件の模倣なんだ」
と思ったことだろう。
ただ、なんといっても、昭和末期というと、今から
「約40年」
という歳月が経っているといってもいいだろう。
なんといっても、
「平成」
という時代が、30年あったのだから、それも当たり前ということである。
もし、
「昭和末期」
に、大学生だったという人は、今では、すでに、
「50歳を超えている」
ということで、いくら、
「少子高齢化の時代」
とはいえ、実際に、
「社会を動かしている主役」
というと、40代くらいまでであろう。
つまり、今の社会の中心にいるという連中は、
「昭和という時代を知らない」
といってもいいかも知れない。
ギリギリ、
「バブルの崩壊」
というものを味わったという人たちで、ある意味、
「一番最悪の時に、社会に飛び出した」
ということである。
「就職氷河期」
と呼ばれた時代であり、その少し前の世代というのは、もっと悲惨で、
「就職した時」
というのが、
「バブル絶頂期」
だっただろう。
その時には、
「売り手市場」
と呼ばれ、会社が、少しでもまともな人であれば、いくらでも、受け入れるという時代だった。
なんといっても、
「事業を拡大すれば儲かる」
ということで、
「人海戦術でもいい」
という時代だった。
だからこそ、当時は、
「新入社員の抱え込み」
ということが行われた。
就活において、面接を受ければすべての会社で内定が受けられ、しかも、優秀な人材は、
「他には絶対に渡したくない」
ということで、
「研修と称して、海外旅行に連れていってもらった」
ということであったり、
「定期的に、食事会」
などを催して、
「自分の会社を選ばせるためには、手段を択ばない」
ということで、露骨な、社員取得争いが行われていた。
新入社員とすれば、完全に、
「竜宮城のような待遇」
に、
「自分たちは、優遇されている」
ということで、いい会社に入社できることになる。
しかし、それはあくまでも、
「バブル時代」
というだけのことであり、確かに、
「バブル期でなくとも、優秀な人材」
ということであっても、
「バブル崩壊」
ということに見舞われてしまうと、
「もう、社会が、そんな状態を許さない」
ということになる。
会社は、
「いつ倒産しても無理もないことだ」
という状態なので、
「いかに会社を延命するか?」
ということで、
「収入が得られないのであれば、支出をいかに減らすか?」
ということになる。
「どんなに優秀な社員がいようとも、破滅的な経済状態では、まったく役に立たない」
と思い込んでしまうと、
「経費節減に走る」
ということしかない。
つまりは、
「経費として一番大きなものが、人件費」
ということで、
「人件費節減」
ということで、それまであまり聞いたことのなかった、
「リストラ」
というものが行われるようになる。
リストラというのは、
「緊急を要すること」
ということで、人を選んでいる場合ではない。
誰であろうと、辞めてもらわないと困るということで、
「早期退職者を募る」
などという方法が取られたりもした。
「今会社を辞めれば、退職金に色をつける」
ということなのだ。
その頃は、まだまだ、
「年功序列」
であったり、
「終身雇用」
というものが言われていた時代だったので、
「バブルが収まってくると。以前のような、終身雇用制に戻る」
ということを考えると、
「簡単に会社を辞める」
ということはできないと考えるだろう。
作品名:生き残りへのいたちごっこ 作家名:森本晃次



