生き残りへのいたちごっこ
ということを、気にしている捜査員がいた。
そこに、一つの結論があるのだが、その時はハッキリと分かっているわけではなく、どこか、難しいとことだという解釈であった。
警察とすれば、人質になっていた人に話を聞かないわけにはいかない。
医者立ち合いの元ということでの、事情聴取が行われたのだが、人質会場から数日が経っていて、医者の立場からも、
「今なら大丈夫」
ということでの聴取となった。
もちろん、刑事の方としても、あまり精神的な刺激を与えないようにしないといけないということは分かっているので、質問に対しても、厳しいものではなかった。
「分かる範囲でかまいませんので」
という前置きは当たり前のこと、聞く順序というものも、シビアにしないといけないと考えていたのであった。
最終的には、
「どこにとらわれていたのか?」
「犯人グループのこと」
を聞き出せればいいと考えていた。
「犯人グループの人数」
「アジトの場所」
などというのが、まずは必要ということで、それ以上のこと、特に、
「犯人グループの誘拐の目的」
「恨みを抱いているとすれば、その理由」
などが分かれば、犯人特定ができるというものだが、実際に、そんなことを人質が分かるはずもなく、分かるくらいなら、
「人質を無事に返すわけもない」
と思っているだろう。
もし、記憶の欠落を、
「犯人グループが、暗示をかける」
などとして行っているとすれば、
「警察側の医者に、催眠術に熟知して、催眠を解くということに精通している人がいると思えば、さすがに犯人の行動は、実に不可思議」
ということになるだろう。
それこそ、
「催眠を解かれても、自分たちの身元がバレるということはない」
という自信があるのであれば、今度は、
「別に記憶を消したり、改ざんする」
などという手間をかける必要などないといえるのではないだろうか。
それをするということは、
「犯人側に、何か意図したるものがある」
ということになるのではないかと考えられる。
とにかく、犯人側は、
「記憶の欠落」
であったり、
「記憶の改ざん」
ということは行ったが、
「人質を傷つける」
あるいは、
「精神的、肉体的な苦痛を与える」
ということがないまま、身代金も受け取ろうともせずに、簡単に人質を解放してきたのである。
そこに、
「何らかの、計画がある」
としても、普通に考えれば、
「非常に、理解に苦しむ犯罪計画」
といってもいいだろう。
「最初の誘拐が、実にスムーズにできたこと」
などからも、
「実に綿密に計画された犯罪計画」
ということは分かっているのだから、
「もう少し、計画を強行に推し進めてきてもいい」
と思えるのに、犯人は、
「わざと、計画を不可解な方向にもっていこう」
という意思が表に出ているとしか思えないのであった。
そんなことを考えていると、
「今回の事件には、裏があるのではないか?」
という考えになっていた。
そもそも、表には出ていないが、探偵が、誰にも知られずに、
「犯人グループに対して、挑戦状をたたきつける」
ということからが、そもそも、おかしなことであろう。
へたな勘繰りとしては、
「探偵を犯人がグルではないか?」
と、それこそ、昔の探偵小説などでは、
「ありではないか?」
といわれる考え方もある。
しかし、実際には、
「ルール違反」
ともいえるところが、その考えにはあるのだ。
というのも、
「探偵小説」
というものには、一種の、
「禁じ手」
というものがある。
というのは、
「探偵小説を書く上で、使ってはいけないトリックであったり、手法というものがある」
といわれるものである。
それを、
「ノックスの十戒」
であったり、
「バンダインの二十則」
といわれるものである。
つまりは、
「トリックを使う場合、探偵小説では犯してはいけないこと」
ということで、例えば、
「事件の解決編において、今まで一度の出てきていない登場人物をいきなり登場させ、実際には、この人物が犯人だった」
などという、読者を欺くようなことは、
「基本的にはルール違反」
ということである。
スポーツのルールなどで、いわゆる、サッカーなどにおける、
「オフサイド」
などと呼ばれるものも、そうなのかも知れない。
そんな中で、
「探偵が犯人であってはいけない」
と呼ばれるものもあるが、これに関しては、
「意外と、探偵が犯人である」
ということも実際の探偵小説では使われている」
といってもいいだろう。
つまり、
「ルール違反」
と思われることでも、読者に対して、その途中で、ヒントのようなものが与えられていれば、ルール違反にはならないということである。
実際の事件としては、なかなかないだろうが、それらの小説を、ある意味、
「言葉や文章のトリック」
ということで、
「作者が、読者に挑戦状をたたきつける」
ということでの、
「叙述トリック」
ということになるであろう。
だから、探偵小説などにおいては。
「いつどこに作者のヒントが隠されているか分からない」
ということで、
「見逃すことのできない小説」
ということになるだろう。
ただ、実際に、
「小説というものを映像化した」
という時、この叙述トリックが使えないということで、
「映像作品にすることで、原作の味というものが出せない」
ということになるのだ。
以前、昭和の時代の、映像作品のキャッチフレーズで、
「読んでから見るか? 見てから読むか?」
というものがあった、
実際の探偵小説を、映画化したり、ドラマ化したりすると、
「見てから読む分には、そこまでの差はないが、読んでから見ると、映像作品が、どうしても、ちゃちく見えてしまう」
ということがえてしてあるものだ。
というのは、
「読書においては、文字だけで発想を豊かにするということで、いくらでも、発想は思い浮かぶ」
ということになる。
しかし、
「映像作品というのは、可視化されているだけに、見えている範囲でしか判断できないことから、そこには、想像力というものは、まったく皆無だといってもいいのではないだろうか?」
ということになる。
それを思えば、
「小説というものは、読んでから見ると、まったく面白くない」
とどうしても感じてしまうのだ。
だが、
「小説と、現実の犯罪」
というものではどうであろうか?
確かに、現実の犯罪というのは、
「可視化されたもの」
ということで、明らかな限界がある。
それだけに、
「いくら綿密な計画を立てたとしても、小説というものの、架空性というものから考える」
ということになると、
「小説にはかなわない」
といえるだろうか。
ただ、実際には、
「小説というものも、作者が考える」
というもので、
「リアルな犯罪も、犯人が、考える」
ということで、考えることに差があるわけではない。
もちろん、
「限界の有無」
というものもあるわけだが、だからといって、小説化すべてが、
「現実では考えられないような話を書ける」
作品名:生き残りへのいたちごっこ 作家名:森本晃次



