一つしかない真実
というような、杓子定規な考え方が多い。
それが、事件解決への近道といえるかも知れない。
「事実は小説よりも奇なり」
といわれるが、それは、
「策を練れば練るほど、どこかに隙ができてしまい、本来であれば、正攻法が一番間違いがないのに、余計なことをしたことで、犯罪が露呈してしまう」
ということになるだろう。
そういう意味で、犯人とすれば、
「自殺」
ということではなく、
「ひき逃げ」
にしたということは、
「ひき逃げをすることで、本来の殺害動機をごまかすことができるのではないか?」
と考えたとすれば、そこに、犯人と警察との間にギャップが生じることで、そのギャップというのは、
「仕掛けた方に、その効力は発揮される」
といえるのではないだろうか?
いわゆる、
「先手必勝」
ということになるのだろうが、
「相手に、先入観を与える」
ということは、まるで、マジックにおける、
「トリックのようなもの」
といえるだろう。
奇しくも、犯罪において、
「捜査陣を欺く」
という言葉も、
「トリック」
といわれるではないか。
そして、今ではそのトリックの種類も出尽くしていて、トリックを使って欺くのであれば、
「欺くためのトリックというものに、さらに一工夫を加えることで、二重三重の、逃げ道を作る必要がある」
ということになる。
「逃げ道」
という言葉に語弊があるということであれば、
「相手の裏をかく」
ということになるのであろう。
人間が、誰かを欺くという場合、よく言われるのが、
「いかにして、隠すか?」
ということである。
いわゆる、
「隠蔽」
という言葉であるが、あまりにも、あからさまな隠ぺいを行うと、それは、
「すぐにバレてしまう」
ということになる。
しかし、
「バレるのは承知の上で、本当に隠したいもの以外を、表に出すことで、相手の目をくらます」
という意味で、
「木を隠すには、森の中」
といわれることもあるだろう。
また、隠し場所という意味では、
「一度警察が捜査して、そこにはなかった」
と判明すれば、
「そこほど安全な隠し場所はない」
ということになる。
隠したいものが、
「ウソ」
というものであれば、
「99の本当の中に、一つの嘘を隠す」
と言われている。
すべてが、本当のことであれば、その中に嘘があったとしても、気づかないというのが、人間の心理だといえるだろう。
「大量の砂の中から、砂金を見つけよう」
としたとして、
「確かに、その少しでもあれば、金持ちになれる」
として、実際に、
「よし、気合を入れて探すぞ」
と思ったとしても、実際に、その砂の量を見て、その可能性を思い図った時、
「とてもではないが、難しい」
と感じてしまうと、それまでの気合が、空回りする形で、逆に、そこまで、
「あわやくば」
と思っていたことが、現実的に、
「不可能だ」
と感じてしまうと、
「そのショックは計り知れない」
といえるだろう。
つまり、
「人間は、いくら、あわやくばを思ったとしても、実際に自分の判断できる範囲で考えた時、無理だと判断すると、それまでのギャップが大きくのしかかってきて、結局は、無理な方に走ってしまう」
という動物なのだ。
だから、今回の犯人は、そんな人間の心理を使ったのではないかと思われるのであった。
そこには、もう一つの打算があった。
というのは、
「こんな考えをするのは、俺くらいだろう」
という犯人の考えがあったと思われるからだ。
実際に、今回の事件は、
「二重三重に計画された」
といってもいいところがあった。
しかし、
「策を弄する人間というのは、えてして、自分が策士であればあるほど、相手に悟られることはない」
と思うのだ。
それが自惚れというものであるのだが、清水刑事は、
「そこが、犯罪者意識としては、少し違っている」
と思ったのだ。
というのは、
「自惚れ」
というものが、本来であれば、犯罪者に隙を作ってしまい、
「そこが、捜査員としての付け目だ」
と考えるが、
「実際にはそうではない」
というのは、確かに、
「策を弄する人間は、同じことを相手にはされない」
ということが自惚れだというが、実際に、
「同じことをされない」
という発想自体が、普通であれば、できないことだといえるのだ。
そもそも、
「俺のような発想ができる人はいない」
と思うから、犯罪計画というものを練るのであり、
「少しでも、
「犯罪の露呈」
という可能性があると考えると、
「犯罪計画を完璧にするまでは、事件を起こすことはできない」
と考えるはずだ。
それだけ、犯人は臆病というもので、それは、
「自分に自信がある人に限って、その強さはハンパのないものだといえるのではないだろうか?」
というのは、
「犯罪者で、計画を立てる人間」
というのは、
「自分の立てた計画には、絶対の自信を持っている」
というのが、昔の探偵小説のテーマであり、だからこそ、
「探偵VS怪盗」
などというのが、
「元々の探偵小説のパターンではないか?」
といえる。
その中には、
「サスペンスタッチでの対決もあれば、トリックの考察と、解明によっての対決というものもある」
ということである。
つまり、そこには、
「対決という側面がある」
ということから、必ず、どちらかからの、
「挑戦状」
というものがあり、逆に、
「どちらからも、挑戦状がある」
という事件もあるかも知れない。
しかし、今回の事件は、
「謎に包まれている事件だ」
といってもいいかも知れない。
しかも、その謎というものが、
「まるで何かを暗示させるものだ」
といってもよく、その犯行が、
「さらに、トラップを掛けるにふさわしい道筋を描いている」
ということであれば、完全に、
「犯人に誘導されている」
ということから、事件は、
「あらぬ方向に導かれている」
ということになるだろう。
さらにもう一つ、
「今回の事件と、どのように結びつくのか分からないが」
ということで、気になっていることがあった。
というのも、清水刑事は、今までに当たってきた、
「犯人による、計画犯罪」
というもので、気になっていることであった。
「何かと結びつく」
ということもあったが、
「実際には関係がない」
ということも結構あった。
しかし、それでも、
「事件に計画性がある」
と感じた時、清水刑事は、それを無視できないと感じるのであった。
だから、今回も、
「また考えてしまった」
ということで、それこそ、これを清水刑事は、
「刑事の勘」
ではないかと感じるのだった。
ただ、この
「刑事の勘」
というのは、曖昧なものではあるが、
「どこからくる発想なのか?」
ということは分かっている気がしていた。
というのは、
「まるで、前にも同じことを感じたことがあるような」
という、誰もが、一度はどこかで感じたことのある感情である。
そう、これはいわゆる、
「デジャブ現象」
というものであった。
今までに、



