噛ませ犬
ということで、よほど何かの不都合でも見つからない限りは、
「親や親せきの反対に遭う」
ということはないだろう。
たぶん、恋愛結婚の時代には、そんなことはないとは思うが、
「家柄の違う」
などという軋轢もないだろう。
それを考えると、
「自分が決めた相手ではない」
というだけで、
「見合い結婚」
や、
「許嫁」
の方が、結婚するに際して、問題はないということであろう。
「許嫁」
などというものを気にするというのは、昔から言われている、
「政略結婚」
などというものの悲劇を考えるからであろう。
特に戦国時代などは、
「同盟を結ぶ」
ということの証として、婚姻が結ばれるという時代である。
まだ、婚姻における、
「政略結婚」
というのはまだましな方だ。
この時代であれば、
「同盟の証として、肉親を、人質に差し出す」
などというのは当たり前だった。
嫡男は、
「家督創造く」
ということで人質にさせないが、次男からあとは、それこそ、
「生まれながらの人質要因」
ということになる。
それこそ、
「人質として人生を歩むことを定めとして生まれてきた」
ということになるであろう。
実際に人質として人生を歩み、一生を、人質になった先で終えたという人も少なくはない。
「歴史のどこにも名前が残っていない。藩主の息子として生まれても、生まれる順番で、まったく人生が変わってくる」
というものだ。
これは、
「家制度」
つまり、
「嫡男が家を継ぐ」
ということが、明治以降も続いてきたというのは、
「時代としては、うまくいっていた」
ということの証明だといってもいいだろう。
どんな時代であっても、
「結婚して子供を作り、その子が代々をつないでいく」
ということに変わりはなかった。
なんといっても、
「世の中には、男と女しかおらず、その比率は、若干の差はあるといっても、結婚に差しさわりのないほどの比率」
ということになっているので、それこそ、世の中が、
「結構しなさい」
といっているようなものではないだろうか。
しかも、
「子供というのは、男だけ、女だけではできるものではない」
という生理的に当たり前のことであることは、
「人間の、いや、生命の宿命」
といってもいいのではないだろうか?
人間というものが、
「結婚しなければいけない」
と誰が決めたのだろうか?
それを考えると、今まで半永久的に続いてきた結婚を、
「離婚」
という形で終わらせたり、
「結婚しない」
という男女が増えたというのが当たり前のようになってくると、
「結婚氷河期」
という時代に入ってきたということであろう。
嫉妬心
「バブル崩壊」
という時代には、もう一つ、
「氷河期」
といわれたものがあった。
もっとも、こっちの方が問題としては大きなもので、それが、
「就職氷河期」
というものだ。
「就職氷河期」
というのは、
「求人がまったくないわけではないが、それに対して、相当数が応募する」
ということで、その倍率は、まるで、戦後に起こった
「ハイパーインフレ」
並みの、
「天文学的数字」
という倍率になるのだった。
だが、実際には、
「結婚氷河期」
という言葉はそんなに普及はしなかったが、この言葉は、
「番所の倍率」
というものの開きということではなかった。
というのは、
「結婚」
というものに対しての氷河期というもので、
「結婚しても、続かない」
「結婚をしない」
ということで、
「結婚というものが成立しない」
ということである。
結婚というものを、
「家と家との結びつき」
などと考えるのであれば、それこそ、
「結婚というものは、制度と考えた時、限りなくゼロに近い制度だ」
といってもいいかも知れない。
「誰が、家のために、結婚などするというのか?」
と考えると、
「結婚って、何のために結婚するんだ?」
と思った時、
「まったく、自分のための何になるというのか?」
ということであった。
「結婚は、人生の墓場だ」
と昔言われていたが、そんな墓場に入ることになるのに、どうして、
「めでたいことだ」
ということで、世間体をはばかるために、大げさな結婚式というものを挙げないといけないのか?
ということである。
「結婚すれば、家族に対して責任ができる」
ということで、考えてみれば、
「家族に対しての責任って、何なんだ?」
ということである。
昔であれば、
「家族の長が働いてきて、家族を喰わせている」
ということであるが、今はほとんど皆共稼ぎではないか。
しかも、
「男女平等」
という観点から、昔に比べて、女性は圧倒的に強くなり、しかも、差別的な発言や行動は、世間から責められるということになり、
「助成の方が優遇される」
ということもあったりするくらいである。
だったら、何も結婚する必要などないのではないか?
あるとすれば、
「遺産相続などの、民法的な財産問題」
ということであったり。
「子供の血族問題」
などというものも、民法的には出てくる問題だといってもいいだろう。
そういう意味では、
「絶対に、男女平等というのはありえない」
ということになるのだろうが、それでも、
「男女平等」
というものを訴える人たちは、
「何がしたいというのか?」
と思えて仕方がなかったりするのだ。
日本には、戦後すぐまで、
「結婚相手以外との姦通は、不倫という形で罪だ」
といわれてきた
「姦通罪」
というものがあった。
この姦通罪というものは、
「日本では、戦後すぐの、民主主義を押し付けられた時になくなったのだが、実際に、他の国では存続しているところが多かった」
実際に、21世紀になっても、存続していた国があったくらいで、
「日本は民主化が早かった証拠だ」
といわれるかも知れないが、実はそうではなかったのだ。
確かに、
「民主化の押し付け」
ということで、
「日本国憲法」
というものが制定されたが、その中の、
「法の下の平等」
という精神に違反するということで、それまでの、
「姦通罪」
というのは、
「明らかに、違憲だった」
というのである。
というのは、
「日本における姦通罪」
というのは、諸外国とは違っていたのだ。
もっといえば、
「大日本帝国時代の姦通罪」
というのは、
「女性が姦通すれば罪になるが、男性が姦通しても罪にはならない」
という、明らかな、
「男尊女卑」
という考えによる法律だったのだ。
その法律は、明らかに、
「法の下の平等に反する」
ということで、
「新刑法から削除」
ということになったのだ。
他の国で存在していた、
「姦通罪」
というものに、そのような、男女差別というものがなかったことで、他の国は、そのまま存続していたというだけのことで、決して、
「他の国が遅れている」
というわけではなかったのだ。
だが、
「姦通罪」
というものはなくなったが、
「犯罪ではない」
ということなのか、実際に、世の中に、
「不倫」



