噛ませ犬
ということを信じて疑わなかったということから、
「予知できなかった連中が一番悪い」
といってもいいかも知れない。
「何のために、経済評論家であったり、政府の専門家機関があるのだ?」
ということである。
後から考えれば、
「なんで、後から考えれば、当たり前じゃないないか?」
ということが分からなかったのだろうか?
ということであるが、
「ひょっとすると、分かっていたのかも知れない」
とも考えられる。
ただ、だからといって、
「根拠もなく騒ぎ立てれば、混乱を招くだけ」
ということで、結局は、
「気づかなかった場合とあまり変わりない」
ということであれば、
「知らぬが仏」
ということで、結果論で語ってはいけないということになるのかも知れない。
だが、一つ言えることは、いくら専門家でも、
「ここまで一気に崩れ去るとは思っていなかった」
ということで、
「もう少し余裕があるだろうから、発表するにしても、もう少し材料を揃えて」
と思っていたのかも知れない。
しかし、一度崩れると、それこそ、
「洪水に巻き込まれる街並み」
のように、あっという間に崩れ去るということになり、
「手の打ちようがなかった」
ということであろう。
確かに、
「きちんとした説明もできないのに、いきなり危機を煽るのは得策ではない」
といえるだろう。
しかし、
「バブルの崩壊が結果論だ」
ということであれば、
「世間へ、分かっていて公表しなかった」
という考え方も、一種の結果論でしかない。
結果論で崩壊してしまったものを、救えなかったからということで、その責任を負わせるというのは、
「理不尽だ」
といえるかも知れない。
責任のやり場に困り、一番、責任転嫁ができるところにあてがうということであれば、それこそ、
「政府のいつものやり方というものを繰り返しているだけのことだ」
ということで、今度こそ、
「国民の信用を無くすことになる」
ともし考えていたとすれば、それはそれで、納得はいくだろう。
しかし、実際に政府にそんな頭があるわけもなく、結局、
「バブル崩壊は、結果論でしかなかった」
ということになるだろう。
そんな時代に、
「政府がいっていることなんか、信じられるもんか」
ということで、
「政府のいうことを聞いていては、自分たちの生活がやっていけない」
ということである。
その大きな問題として、その頃から言われているのが、
「少子高齢化」
という問題であった。
「家制度」
というものが崩壊し、
「家を継ぐなんて昔の考えでナンセンスだ」
といわれるようになると、
「家族が皆で一つの家に住む」
などということがなくなってきた。
なんといっても、バブル時期に、
「土地の値段が急騰した」
ということで、
「一軒家など、夢のまた夢」
ということになった。
確かに、
「バブルで儲けた」
という人もいるだろうが、それは、本当にごく一部の人たちで、しかも、その土地も、
「実体のないもの」
つまり、
「バブル」
ということで、
「土地ころがし」
などという言葉が流行ったくらいである。
バブルがはじけると、土地の値段が下がり。しかも、
「下がった値段でも売れない」
ということになり、そうなると、
「持っているだけで、税金を持っていかれる」
という、大損となるのだ。
そんな状態で、一般市民が、
「一軒家を持つ」
などありえない。
昭和の時代だったら、
「30年ローン」
などで、銀行からお金を借りて、家を建てるということもできただろうが、バブルがはじけると、
「金を貸してくれるはずの銀行は、それまでの過剰融資がたたって、まず、一般人である個人に金を貸すなどということはない」
そうなると、持ち家がない人が、
「家を持つ」
などありえない時代だった。
せめて、分譲マンションがいいところであろうが、これも。
「建てたはいいが、入居希望者がほとんどいない」
という状態だったのだ。
そうなると、
「賃貸の狭い部屋で、夫婦と、子供が暮らすだけしかできないような住まいしかない」
といえるだろう。
だから、
「子供ができても、祖父母が見る」
ということもできないだろう。
しかも、時代が進むにつれて、
「定年というのが延長されていき、それにつれて、年金支給年齢が上がっていく」
ということで、
祖父母は、まだまだ働いていることから、子供を見てもらうということができなくなるのだ。
そうなると、今度は、
「保育園や託児所に、子供があふれる」
ということになるが、いきなり崩壊したバブルのせいで、施設の充実が整うわけもない。
つまりは、
「預かってくれる人がいないのに、少子高齢化になることで、子供をどんどん作れ」
ということで、
「子供に補助金を出す」
ということが、かなり経ってから出てきたことであるが、それこそ、
「時すでに遅い」
といってもいいだろう。
そんな社会情勢で、
「誰が子供を作る」
というものか。
そうなると、そもそも、
「結婚しなければいけない」
という意味も失われてくる。
「家と家の結び付き」
などといわれていたが、実際には、結婚しても、
「成田離婚」
などといわれ、
「新婚旅行から帰ってきてから、すぐに離婚する」
という夫婦が極端に増えたということで、今では、
「結婚しない男女」
というものが、当たり前のようになってきたのだ。
そもそも、民主主義というものが、
「個人の自由」
というものを尊重しているのだから、結婚というものに縛られるというのは、おかしなことだと考えたとしても無理もない。
結婚しなくても、
「好きな人同士が一種にいる」
というだけで、何が悪いというのだ。
もちろん、一部には、
「名門」
といわれるような家があったりして、
「芸術的な古来から続く旧家」
というものであれば、その莫大な遺産に絡むということで、それこそ、
「個人の自由は許されない」
ということになるかも知れない。
しかし、そんなものは、本当の氷山の一角というもので、
「ほとんどの人は、バブル崩壊の時期」
には、
「家父長制度」
というものや、
「家によるつながり」
というものは、
「過去の遺物」
といってもいいかも知れない。
昭和の時代には、それまでの、
「許嫁」
などといわれるものが古いということで、
「好きな者同士が結婚する」
という自由恋愛における、恋愛結婚というものが流行った。
「好きな者同士で、ある程度の交際期間を経て、親に紹介し、そこで結婚」
という形になるのだから、それまでの、風習で結婚していた親の世代から考えれば、
「恋愛結婚に対しての確執」
というようなものが大きいのは当たり前だといってもいいだろう。
だから、
「恋愛結婚というものを快く思っていない親であれば、勝手に結婚相手を決めてきた」
ということで、文句を言いたいのかも知れない。
しかも、
「見合い結婚」
であったり、
「許嫁」
であれば、
「親の説得」
というのはありえない。
そもそも、
「親が進めてきた相手」



