噛ませ犬
「人間には、本能というものがあり、その本能が、普通であれば信じられないようなことを起こす」
といっても、これは、
「人間というよりも、他の動物の方がその傾向が強く、動物は感情というものを持たないということから、余計に、本能というもので、生き抜く」
ということになるだろう。
「人間には分からないが、動物は自分たちの種族に、それぞれの言葉のようなものがあり、伝え合っている。それが、共鳴振動のようなものなのかも知れない」
と思うと、
「共鳴振動」
というのもバカにできないといえるだろう。
人間において、本能で行動するというのは、どちらかというと、
「退化している」
という感覚になる場合が多いかも知れない。
つまりは、
「人間の進化というのは、感情の発展というものにある」
という感情で、
「感情がない動物が、本能によって行動している」
と考えると、
「人間こそが、高等動物だ」
と考えるようになり、
「下等動物とは違う」
という感情から、
「本能のままに動くのは、退化している」
ということで、
「人間には、他の動物にはないものを持っていて、それが、理性というものだ」
ということであった。
他の動物にも、
「理性のようなもの」
というのはあるだろう。
なければ、同一種族の中で、うまくやっていけるわけはない。
それを考えると、
「動物は、本能の中に、理性を持っている」
ということになるだろう。
と考える。
いや、むしろ、
「本能と理性というものの区別がつかないから、一緒くたに考えることで、本能の中に理性を持っている」
という、人間にとって、
「都合のいい解釈」
というものをするということになるのだろう。
子供の頃というと、
「親も、自分たちと同じ子供時代を過ごしてきたのだから、子供の気持ちは分かるはずだ」
と、普通であれば、考えるものだ。
特に、昔になればなるほど、
「親の威厳」
というものが激しくて、
「自分が大人になったら。自分の子供には、今感じている自分と同じ気持ちにさせてはいけない」
と、少なくとも、一度はそう思ってもいいだろう。
しかし、実際には、
「大人になると、子供の頃に思っていたはずの感情を忘れてしまうのか、大人は大人の都合でしか話さないようになる」
ということである。
これは、
「親の親が、自分の子供、つまりは、親に対して感じていたよりも、激しい感情となっているのではないか?」
とさえ思うのだ。
昔の方が、
「世間体」
というものを気にするというもので、昔の親は子供に対して、
「世間体に悪い」
ということであったり、母親が子供を叱る時によく言われることとして、
「お父さんの顔に泥を塗るんじゃありません」
といわれるものだった。
しかし、今の時代は、
「親は、自分が恥ずかしい」
あるいは、
「自分にとって都合が悪い」
という言い方をする。
昔であれば、
「自分のことよりも、父親であったり、子供の将来について怒っていたのに、それが、少し変わってきた」
ということだ。
もっとも、昔でも、父親を引き合いに出すというのは、二つのことが考えられる。
一つは、
「家父長制度」
の名残りということで、
「父親に対しての敬意を表する」
ということからの、まだマシな考えであろうが、もう一つは、
「容認できないところがある」
ということで、その発想が、
「自分の意見を父親の意見ということで、一種の責任転嫁をしよう」
ということではないだろうか。
だから、結局は、
「今も昔も、一長一短の考え方があり。一概に、何が正しいのかとは言えない」
ということになるだろう。
ただ、
「大人になり、自分が親の立場になると、子供の頃に感じた思いを、なぜか、まったく忘れてしまうということになる」
といえるだろう。
これは、実に不思議に思うことだった。
父親であれば、そこまで極端ではないが、こちらも、考え方が複数あるといえるだろう。
一つは、
「親になったということで、その責任を一身に背負って、自分が悪者になっても、かまわない」
という考えから、
「教育する」
ということである。
ただ、今の大人を見ていると、
「結局、最後は、自分の都合」
ということで、
「大人としての責任をいかに全うするか?」
ということを隠れ蓑にして、
「やってますアピール」
をしているだけなのではないだろうか?
それこそ、前の世代がいっていた、
「世間体」
というものを、カモフラージュするかのように見ているだけで、言い方を変えれば、
「いかに、感情をごまかしながら、演じているか?」
ということになるのだろう。
「人間は大人になると、子供の頃の感情を忘れてしまう」
ということで考えられるのは、もう一つあった。
それは、
「大人になればなるほど、感情を制御できなくなる」
ということではないだろうか?
本来であれば、大人になるということは、
「モラル」
であったり、
「道徳」
というものをわきまえるようになり、自分だけでなく、まわりを見れるようになることで、世の中を形成している人間の一人となる。
ということになるだろう。
人とのかかわりに関して、
「うまくやっていく」
ということが必須であり、だからこそ、
「人に気を遣う」
ということが当たり前だということになる。
それらのことは、子供の頃から、言われなくても経験していることだろう。
子供の中には、
「うまく大人に気を遣うことで、
「大人から好かれる」
という子供でいる人も多い。
「そんな子供が大人をどんな目で見ているのか?」
というのは、確かにその人それぞれといってもいいだろう。
だが、ハッキリとは断言できる人はいないだろう。
なぜなら、
「子供の頃に、大人に対して気を遣っていた」
という人も、自分が大人になるにつれて、
「その時の感情を、どんどん忘れてしまっていくからだ」
ということだからだろう。
結局、
「気を遣わない人は、最初から、そんな感情があるわけではなく、気を遣う人も忘れてしまう」
ということなのだから、
「大人になれば、子供だった頃の気持ちを、すっかり忘れてしまった」
といっても、
「それは無理もないことだ」
ということになるのだろう。
「感情を制御できなくなる」
というのが、
「大人になるにつれて」
という前置きの元で考えると、
「大人と子供の間の境界線には、大きな結界がある」
というのは、間違いないと思えてくるのであった。
「感情を制御できなくなる」
ということの一つとして、
「人間には、欲というものがあり、その欲というものは、果てしない」
と考えられるからではないだろうか?
「犯罪というものは、欲からできている」
という言葉もあるくらいで、
「人間は、欲があるから成長もするが、間違いも犯す」
といえるだろう。
もっとも、それは、
「欲というものが、すべて悪い」
ということで、一刀両断にした場合という考えの元であれば、ある意味、
「解釈を簡単にすることができる」
ともいえるだろう。



