噛ませ犬
と思うことになるが、そこには、
「羞恥心」
というものと、
「興味はあるけど、セックスというものはいけないことだ」
と感じる思いとがジレンマとなって襲ってくる。
特に、
「セックスはいけないことだ」
という感覚にさせられるのは、
「妊娠してはいけない」
という感覚からだろう。
確かに、法律で、
「結婚できる年齢は決まっている」
ということであるし、
「まだ中学生。高校生で妊娠して、子供を育てることなどできるはずもない」
ということを、分かっているからだ。
テレビ番組などで、よく、
「中学生が妊娠して、まわりが、巻き込まれる」
というのがあり、
「ハッピーエンド」
となることが多いが、それはあくまでも、
「子供の命や尊厳」
というものを考えるからで、
「生まれてきた命を守る」
という観点からである。
しかし、実際には、
「子供を作ってはいけない」
ということが、
「生活能力がない親」
という現実から、結局は、
「養護施設に預けられる可能性の高さ」
を考えると、
「テレビドラマでのハッピーエンドというのは、理想論でしかない」
といってもいいだろう。
「理想論と現実」
というものには、あまりにも大きな差があるということで、テレビドラマとすれば、その大きな差というものに挑戦するというのは、一つの冒険といえるだろうが、どうしても、
「モラルの問題」
と、
「現実」
というものを比較した場合、
「超えることのできない結界」
というものがあり、それが、
「交わることのない平行線」
というものを作るしかないという結論に至るのかも知れない。
そうなると、強引にハッピーエンドにもっていった場合、必ずどこかで、
「歪」
のようなものが生まれ、
「現実というものに対しての、あくまでも、架空の物語としての、対比である」
ということをどこかで示さないと、世間に対しての影響が大きくなるかも知れない。
それを考えると、
「性的行為」
あるいは、
「性的描写」
というものを、
「モラル」
というものと比較して考えることは、ある意味、
「自殺行為に近い」
といえるかも知れない。
どうしても、誰もがドラマなどを見る場合、
「主人公であったり、立場が近い人間に、自分を投影させて見る」
ということが、視聴者の感情であろう。
さらに、ドラマの制作側も、
「そういう人をターゲットにして、一人でも多くの人に見てもらいたい」
ということを考えるだろう。
だから、ドラマ制作において、
「年齢層であったり、その人を取り巻く環境」
などというものをターゲットにして、いかに、その気持ちを掴むか?
ということになることで、それこそ、
「共感を得る」
ということになるだろう。
それこそが、
「共鳴」
ということになり、前述の、
「共鳴振動」
というものが、いかに感情と結びつくか?
ということで、振動の度合いによって、
「感情の高ぶりが変わってくる」
というものだ。
しかも、そこに、
「性描写」
であったり、
「性に対しての高ぶる感情」
というものが、思春期を中心とした
「大人の世界」
では、いたるところで繰り広げられているといってもいいだろう。
「大人の感情」
というものは、実に敏感で、大きく人生を左右することになると考えると、
「子供の頃から、大人になるための正しい教育が必要不可欠だ」
ということになり、
「だから、子供は守られるべきもの」
と考えられている。
確かに、
「子供には、大人のような感情はなく、ちょっとしたことで、壊れやすい」
と思われているかも知れないが、
「実際の感情というのは、大人の方が微妙であり、まるで、ガラスのようなものではないか?」
といっていいだろう。
それは、
「大人になると、子供の頃の感情を忘れてしまう」
ということが考えられるからなのかも知れない。
「大人と子供の一番大きな違い」
というのは何であろうか?
いろいろ考えてみたが、すぐには分からなかった。
もちろん、
「大人と子供の両方を経験していないと分からない」
ということであり、その感覚から、
「大人になると、子供の頃に感じたことを忘れてしまうのではないか?」
と思うことがあるのだった。
ただ、その思いを感じたのは、大人になってからということではなく、
「子供の頃」
だったのだ。
それは、
「大人というものを、反面教師として見ている」
ということを子供心に感じたからではないだろうか?
というのは、
「大人は、よく、子供を叱る」
もっとも、今の時代は、
「子供を叱る」
という大人が減ってきているようで、それこそ、
「幼児虐待」
などといわれるのは怖いと感じるからなのか、
「子供から反発を受けて、攻撃されることが怖いのか?」
と、それぞれの相反する感情が存在するからなのかも知れない。
確かに、今の大人は、
「自分の不満や苛立ちを、自分の中に押さえつけることができなくなると、身近なところで、肩をつけようとする」
ということで、
「ターゲットを自分の子供にぶつける」
ということが多かったりする。
それが、幼児虐待となるのであり、今の多くは、
「シングルマザーの女性が、チンピラのような、ヒモ男のようなやつに食いつかれ、寂しさからか、男に離れられることを恐れ、男の命令には、絶対服従ということで、自分の子供が虐待されても、文句を言わない母親がいたりすることで、ヒモ男は、余計に図に乗り、最後は、虐待により、殺害する」
などという、
「実に悲惨は事件」
というのが発生することになるのだ。
その時点で、その母親も気づけば、まだ救いようがあるのかも知れないが、
「それでもまだ、男にしがみつこうとする女」
というのがいて、結局は、
「そんな女は、死んでも治らないだろう」
といわれることになるだろう。
もちろん、
「手を下したヒモ男が悪い」
ということであろうが、そもそも、
「肉親としての母親が、助けられなかったことが問題」
ということで、そうなってくると、
「肉親」
というものは、どう解釈すればいいということになる。
「血は水よりも濃い」
といわれるが、それも、信じられない時代になってきた。
よくテレビドラマなどで、
「子供が育てられない」
ということで、子供を捨てた親が、
「成長した子供と偶然出会う」
というシーンがあり、実際には、
「その子が自分の子供だと分からなかった」
ということで、他人が母親をなじるシーンがある。
「お腹を痛めて生んだ子なんだから、どんなに長く離れていたとしても、すぐに分かるものではないか」
というのだが、果たしてそうなのだろうか?
赤ん坊の時しか見たことがないのに、成長して、大人になった子供を、
「一目見ただけで分かる」
などというのは、それこそ、
「オカルト的な発想」
であり、ありえないことではないかと、
「どうして、ドラマを見ていて、誰も思わないのだろうか?」
と感じる。
制御



