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噛ませ犬

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 それが、
「年功序列」
 という風習から、
「同じ会社に勤めていれば、年齢とともに、出世していく」
 ということで、入った会社への定着率が上がるということである。
 せっかく、面接をして新卒を取ったのに、数年で辞めていくということになると、せっかく育てても、意味がないということになるのではないだろうか。
 だから、バブル崩壊までは、
「同じ会社に入れば、年功序列で定年まで働く」
 というのが当たり前であり、理想だとされたものだ。
 そうでないと、
「もし、新卒に教育しても、すぐにやめてしまう」
 ということになると、
「教育しても」
 ということになり、また、
「年功序列ではなく実力主義で、年齢に関係なく出世できる」
 ということになると、
「新卒を教育する上司としても、途中で抜かれて、自分の上司になられるくらいなら、まじめに教育すると、自分の首を絞めることになる」
 という考えから、
「会社が社員を育てる」
 ということに関して、
「年功序列でなければ、成り立たない」
 ということになるであろう。
 だから、異までは、
「結婚しない男女」
 というものが増えてきた。
 だからといって、
「嫉妬心がない」
 というわけではない。
 なるほど、
「猜疑心」
 というと、どうしても、
「旦那や妻が浮気や不倫をした」
 ということで勘違いされやすいのだが、ここでいう、
「浮気と不倫」
「猜疑心と嫉妬心」
 というものの違いについてであるが、
「不倫」
 というのは、
「交際関係にある、男女のどちらかが、あるいは、どちらもが、既婚者である」
 ということを示している。
 そして、
「浮気」
 というのは、それぞれに既婚者がどうかは関係なく、
「パートナーがいるにも関わらず、その人を裏切る形で他の人と交際をしたりしている場合」
 などを言ったりする。
 もちろん、肉体関係の有無が大きな問題になるが、それだけではなく、その二人の刑形成であったり、持続期間でも、その違いを争われる場合がある。
 主に、法律的な、損害賠償問題というのが大きな影響を持つということであろうが、
「不倫と浮気」
 というのは、混同されて使われやすいが、
「明らかな違いがある」
 といっていいだろう。
 それとは違い、
「猜疑心と嫉妬心」
 というのは、明確な違いがあるように思えるが、度合いという意味では変わらないが、
「原因と、その過程」
 あるいは、
「原因と結果」
 という意味での違いということになれば、
「明確な違い」
 といってもいいだろう。
 そういう意味では、
「猜疑心との対比して言われているものがある」
 というのであれば、
「懐疑心」
 と呼ばれるものである。
「猜疑心」
 であったり、
「懐疑心」
 というのは、そのどちらも、
「何かの疑いを持ったりした時、感じるのが、猜疑心であり、懐疑心というものである」
 ということであるが、しかし、
「明確な違い」
 ということであれば、
「猜疑心」
 というものは、
「持ってしまった疑いが、妬みなどによって発展するものである場合」
 を、
「猜疑心」
 と呼び、
「ただ、疑いを持っただけで、その疑いから、まだ進展する様子のない場合を、
「懐疑心」
 と呼ぶのであった。
 だから、
「嫉妬心」
 というべき感情を、
「途中の過程において」
 であったり、
「疑いを持った結果において」
 であったりした場合を、猜疑心と呼ぶ。
 つまりは、意味としては、同じことを言っているといってもいいだろう。
 問題は、
「猜疑心が、嫉妬に代わってしまった」
 という場合、今度はその嫉妬心が、
「何に代わるか?」
 ということである。
「許容できない」
 ということから、
「離婚」
 というものにつながるということもあり、さらには、それがもっとひどくなると、
「殺意」
 などという、最悪の形になってくるというものである。
「嫉妬心」
 昔の時代の、
「探偵小説」
 などでは、
「猜疑心が強く、奥さんの不倫を疑って、衝動的に殺した」
 という話もあったりする。
 そんな場合、
「嫉妬心から」
 というよりも、
「猜疑心が強い」
 ということが殺意になったりする。
 それだけ、猜疑心というのは、
「精神的なことに対して密接している」
 といってもいいのではないだろうか?
 そういう意味で、
「猜疑心が強い」
 ということから、
「嫉妬心が生まれ」
 その嫉妬心が、殺意に代わるということを考えれば、そもそも、猜疑心が強いことが、本来の性格を呼び起こし、それが、殺意につながったといえるだろう。
 そういう意味でなのか、あまり、
「嫉妬心」
 という言い方はしない。
「猜疑心が強いことで、殺意が生まれた」
 というと、まるで、
「一足飛び」
 に感じられる。
 殺人動機としては、それでいいのかも知れないが、
「殺意」
 ということで考えれば。
「嫉妬心」
 というものから生まれるものなのかも知れない。

                 完全犯罪の罠

「殺害動機」
 というものと、
「殺意」
 というものも、時として、同じ扱いを受けるかも知れないが、微妙に違うものだといってもいいだろう。
 ただ、ハッキリしていることとして。
「殺害動機」
 というのは、
「誰かを殺したい」
 と思ったとして、
「その理由が何であるか?」
 というものであり、
「殺意」
 というのは、殺害動機に基づいて殺した場合、そこに、
「殺害に至るまでの、感情があったのかどうか?」
 ということである。
 つまり、
「動機がある」
 としても、皆が皆、人を殺すというわけではない。
 それだけ、
「殺害動機」
 というものは、世の中にあふれているといってもいいかも知れない。
 実際に、毎日のように、日本のどこかで
「人が殺害される」
 という事件が起こっているわけで、その皆が皆、
「動機のある殺人」
 というわけでもない。
 中には、
「ちょっとした喧嘩が嵩じて、殺害してしまった」
 ということもあるだろうし、
「出会いがしらの交通事故」
 によって、命を落とすという人もいる。
 これは、
「殺人」
 ということではなく。
「傷害致死」
 というものである。
 そういう意味で、
「傷害致死」
 なのか、
「殺人」
 なのか?
 ということで問題になるのが、
「殺意の有無」
 ということである。
 そのために問題になるのが、
「動機の有無」
 というものであろう。
 もちろん、
「動機なき殺意」
 というのがあるのも当たり前で、それが、
「ちょっとした喧嘩が高じる」
 などという場合があるだろう。
 だから、これは、
「衝動的な犯罪」
 ということで、もし、動機があるとすれば、
「その瞬間に生まれたもの」 
 ということになり、それこそ、
「殺意がそのまま、動機になってしまった」
 ということだ。
 だから、
「被害者と加害者の間に、過去の因縁が存在しない」
 ということが当たり前ということになる。
 だから、
「殺意が、動機に代わる」
 という、
「逆転現象」
 のようなものが起こってくるのではないだろうか?
作品名:噛ませ犬 作家名:森本晃次