噛ませ犬
「結婚してからでしか、そんな田舎の風習であったり、大家族のイメージを残していることで、まるで、奴隷のように扱われる」
ということが分からないという人も多いことだ、
ただ、今ではネットの普及であったり、情報が豊富にあることから、ちょっとした検索で結婚に対しての、
「心構え」
であったり、
「気を付けるべきこと」
というのが分かることから、一時期の恋愛結婚のように、
「相手を愛しているから、何があっても、切り抜けられる」
などというのは、完全に、
「絵に描いた餅だ」
ということになるだろう。
だから、
「恋愛結婚というものは、今では、時代遅れではないか?」
とも考えられる。
「相手を好きだから」
というだけで、うまくいくという考えこそ、まるで、
「力技」
といってもいいのではないだろうか?
そもそも
「相手が好きだ」
といっても、それは、
「永久に続くものだ」
といえるだろうか。
実際に、結婚した時は、
「相手のことをすべて分かっていて、だから嫌いになることもなく、絆が永遠である」
ということになるのだろう。
しかし、それは、理想論であり、
「あまりにも都合よく考える」
ということになるだろう。
そもそも、
「相手に飽きたり、いやになるから、不倫ということが起こる」
ということである。
実際に、
「成田離婚」
というものとは少し違うかも知れないが、
「スピード離婚に至るまで」
ということで考えられることとして、
「相手に飽きる」
ということもあるだろう。
結婚するまで、交際期間ということで、時々会っている間はよかったのだが
「結婚して毎日一緒にいる」
ということになると、今度は、
「たまには一人になりたい」
あるいは、
「自分の時間がほしい」
と思っても、
「新婚というと、絶えず一緒にいるのが当たり前」
という、何かに凝り固まった感覚になると、そのうちに、
「気を遣わないとやっていけない」
ということに気づくだろう。
付き合っている間は、
「一番気を遣うことのない相手」
ということで、お互いに、
「相手がこちらの気持ちを分かってくれている」
ということで、それが、
「自分の得であるかのような考えに至る」
ということになると、
「好きになる」
ということと、
「気を遣う」
ということがまるで、同一だったかのようになり、
「無理して気を遣わないと、毎日一緒にいる場合は、うまくいかない」
ということに気づくと、今度は、
「気を遣う」
ということが、
「相手に飽きを感じる」
ということになると、考えるようになるのだった。
それが、
「身体の関係」
ということが絡んでくると、今度は苦痛になってくる。
それまでの付き合っている時は、
「結婚すれば、毎日一緒にいられる」
ということで、
「毎日癒しがもらえる」
ということであったが、実は、
「結婚すると、今度は、自分から癒しを与えるようにしないと、相手から癒しを得ることはできない」
ということになると分からないのだろう。
「お互いに癒しあう」
ということは、交際期間で分かっていたはずである。
しかし、これが結婚ということになり、
「癒しを与えないと、得られない」
ということが分かってくると、
「それまで、自分のやさしさなり、無意識の癒しが、恋愛における、愛情表現のようなもので、相手からは、その報いがあると考えていたものだった」
それこそ、
「相手に、求める」
ということで、一度歯車が狂えば、感情がうまく働かないということになるであろう。
結婚してしまうと、
「事態は一変する」
といってもいいだろう。
「毎日、ずっと一緒にいたい」
と思っていたものが、
「自分の時間がほしい」
と思ったとしても、そうもうまくいかなかったりする。
奥さんが何も言わないとしても。気持ちがすれ違ってしまっては、お互いに、すれ違いが多くなって、それが当たり前ということになるだろう。
しかし、実際には、
「奥さんが何も言わない」
ということであっても、旦那としては、
「奥さんを嫌いになる」
ということはないが、逆に、
「奥さんが何も言わない」
ということに関して、
「何もないのは無事な知らせ」
といわれるように、
「何かあれば、自分から相談してくる」
と考えていたのだ。
だから、
「何も言わないので、文句はないだろう」
とタカをくくっていると、
「あの人は、私のことを見てくれていない」
ということで、奥さんは奥さんで、先に進んでしまうことだろう。
旦那が、安心しているうちに、奥さんは、自分一人で悩んで、そして、自分なりの回答を出す。
そして、その時初めて旦那に対して口を開くのだ。
つまり、逆にいえば、
「奥さんが、口を開けば、その瞬間から、破局に向かっている」
ということである。
旦那としては、
「ここから初めて、奥さんと同じ位置に立って、話が聞ける」
と思っているが、奥さんとすれば、
「すでに、離婚というゴールは見えていて、後はテープを切るだけだ」
と思っているだろう。
まさか、旦那はそんなこととはつゆ知らず、
「まさかの奥さんからの、離婚届を目の前に置かれる」
というような事態に、慌てないではないだろう。
というよりも、
「女房とすれば、離婚届を突き付ければ、こちらが本気になって考える」
という、
「演出だ」
と思っていると感じるだろうが、実際には、すでに、
「心は決まっている」
ということで、その時点で、
「最高に距離が広がった」
といってもいい。
だから、奥さんとすれば、
「離婚を切り出すのに、お互いの最高の距離」
というものを見ておく必要があると考えたのだろう。
なるほど、
「離婚というものを考える前は、なるべく近づこうと思っていたことで、これまで身えば買ったことが見えた」
と考えると、
「今度は、その最高の距離を見ることで、お互いの限界が見える」
ということではないだろうか?
もし、最高の距離だと思っていたものが、実際にはそうではなく、それ以上に距離があり
「限界というものではない」
と考えれば、
「実際に、今見えたものは限界だ」
ということではなく、
「さらに、果てしない高見が見れるのではないだろうか?」
ということから、考え直すこともできるかも知れないが、実際に、
「最高の距離」
というものを感じたということであれば、
「二度と、やり直しはできない」
と考えることで、前に進むしかないと思うことだろう。
特に、
「離婚というものが、ネガティブではない」
と考えるようになると、
「離婚が必ずしも、後戻りであったり、
「人生の汚点だ」
ということにならないだろう。
それを思うと、
「離婚が増えてきた」
というのも、決して悪いことではない。
それこそ、
「就職というものでも、バブル崩壊からは、終身雇用ではない」
ということになったではないか。
転職をするというのが、履歴に傷がつくということで、あまりいい印象を与えないというのは、
「先進国では、日本くらいのもの」
ということであった。



